無期限モラトリアム

今日もおかげさまで負け犬の一日がはじまった。

尻尾を巻いて逃げたとしても、逃げた先にもまた人生があるんだなぁ。

健康のために一日一食を続けている。

僕はなぜ健康でいたいのだろう。

少しでも長く生きていたいからか。

だとしたらあまり意味がない。

とこまで長生きしようがいつか必ず死ぬのだから。

死を恐れる限り生きたいという思いは執着となる。

死にたくないから生きるのでは何かおかしい。

なぜ生きるのか。

問題はそこだ。

健康は何かを成し遂げるために必要なもの。

健康であること自体が目的ではない。

阿弥陀仏の浄土に生まれ、そこで修行を積み菩薩となってまたこの世に生まれ、多くの人を救うこと。

これが僕の輪廻をまたぐ目標だ。

そのためには阿弥陀仏が僕を必ず救ってくださり、極楽に生まれさせてくださると信じて微塵も疑わない心を手に入れなくてはならない。

つまり僕が生きることの目的は阿弥陀仏を絶対に信じる心を手に入れることにある。

そのために健康でありたいと願うのが本筋だ。

とはいえ何事もなく平和な毎日のなかで信心をゲットするのは難しい。

健康なときには健康のありがたさを感じない。

元気で働けている間は死なんて意識しない。

自分が死に直面したり、近しい人の死に触れたとき、初めて生々しく死を感じ、死について考えはじめる。

やはり死をリアリティをもって感じなければ本当の信仰心は生まれない。

いつ死んでもいいと思えたときが信じる心が確立したときだ。

僕の人生の本質を表現する言葉、絵、音楽、何らかの作品、そういったものが自分のなかから生まれてきて、それを表現できたときに僕は死んでもいい心境になるのだと思っている。

僕は僕の人生をしっかりと表現できる何かを求めて生きている。

そこに尽きる。

菩薩になるために表現するってかっこいい。

「僕は菩薩になりたい。

そのために見る人、聞く人、読む人の側に寄り添っているような温もりが感じられる作品をつくるんだ。

悩み苦しんでいる人がこの世に一人でもいる限り、僕の表現は未完成だ」

なんてことをインタビューで話したい。

そんな夢想ばかりしていたから40歳半ばにして完全な負け犬になった。

無期限モラトリアムの大馬鹿野郎。