問うことから、答えることへ
「なぜ私がこんな目に合わなくてはならないのか?」
苦しいこと、悲しいことが自分の身に起こるとそう考えてしまう。
その問いを
「人生が私になにを求めているのか?」
に変える。
そうすることで生きること自体が問いに対する答えになる。
自分が誰かに何かを望んでいるうちは、「なぜ?」という問いが頻発する。自分には責任がない、あいつが悪い、社会が悪い、世の中は不公平だと不満が募る。
人生が僕に望むものは何かという問いを身近なものに置き換えてみるとわかりやすい。
妻が僕に望むものは何か。年老いた両親が僕に望むものは何か。職場の仲間が僕に望むものは何か。そうやって考えていくことで生きることへの責任感が生まれてくる。
「阿弥陀様は僕に何を望んでおられるだろうか?」と考えてみることがある。
人生が僕に何を求めているのかという問いではしっくりこないから、阿弥陀様にご登場願っている。
阿弥陀様は僕に直接語りかけてはこられない。黙ってじっと僕を見続けてくださっている。阿弥陀様の慈悲が僕の身の回りにあふれていることに気づくのをじっと待ってくださっている。阿弥陀様はお優しいから先人たちや、周囲の人を介して阿弥陀様の慈悲に気づくためのヒントを投げかけてくださっている。鈍感な僕はそれに気づかない。
誰かがいつも黙って見ていてくれる。これは恐ろしいことでもあり、嬉しいことでもある。孤独ではない。どんな人生でも生きる意味があるということなのだ。
インド洋のど真ん中でただ一人海に放り出され、誰にも気づかれず浮いたまま死にもせず何日もさまよっているなかで阿弥陀様が見ていてくださっているとあきらめず信じ続けられるだろうか。阿弥陀様でなくてもいい、妻が、両親が、誰かが、仕事でもいい、僕の帰りを待っていると信じ続けることができるだろうか。(阿弥陀様がおられる場所は極楽浄土だから、帰りを待つイコール死ぬのを待ってるという意味にも取れそうだけどそれはない、絶対違う!)
誰からも必要とされていない。誰も僕を待ってなんていない。誰も僕を見てくれてなんていない。
そう思ったとき、あきらめる。その先に死がある。
阿弥陀様でも家族でも仲間でも誰だっていい。自分を見続けてくれる人を探すことだ。必ずいる。
とりあえず阿弥陀様は万人をへだたりなく見てくださっている。