らしく、しかできない

口数を減らすととても楽だ。

疲れたときは口数が減る。話すのは疲れる証拠だ。

だったら口数が減ると楽なのも当然だ。

言葉は最低限でいい。

必要なことだけを必要な言葉だけ使って伝えられたら十分だ。

僕は芸人ではない。言葉で人を必要以上に楽しませる必要もない。

これまでかなり無理をしてきた。

場を良くしよう、和ませよう、意味あるものにしよう、僕を理解してもらおう、彼を理解しよう。

僕なりのサービス精神で言葉を重ねてきた。

それらの全てが無駄だったとはいわない。

無口である方がいいとこれまでの体験が教えてくれたから。

僕が何者かを理解して欲しかったし、彼が何者かを理解したかったけど、お互いに理解なんてできないとわかった。

自分の中から生まれてくるものとじっくり向き合う生き方が僕にとっては幸せだ。

人に理解してもらうために何かをやるのではなく、自分のためにやる。

自分のためにやって、自分と向き合い、自分を理解してはじめて人も理解できる。

人を理解する前に自分を理解しよう。

 若いころにロックだ芸術だと騒いでいた奴らはみんなまっとうに生活している。

僕は未だにそれができない。

かっこつけていってるんじゃない。

まっとうに生活できないのはかっこ悪い。

はっきりとわかっている。

でもなぜかできない。

できないなら、それで生きるしかない。

僕なりにまっとうになる方法としては、表だっての個性を消していくというやり方しか思いつけない。

負け犬は吠えるな。

負け犬は気配を消せ。

表に出ようとしなくてもいい。

もう安心して自分と向き合え。

 

 

負け犬でいく

いろんなことをあきらめたい。

あきらめる努力をしている。

周りから頼られないわけではないが、重宝されるわけでもない。

都合の良い使われ方をするばかり。

期待したら外れる。

40年間中途半端な生き方をしてきたから自業自得だ。

あきらめる。

無関心になる。

この2つをマスターするだけでかなり人生が楽になるはず。

諦観(ていかん)。

ものこどの本質を見抜く、悟るという意味がある。

あきらめるというのはネガティブな意味ではない。

僕には他人を変える力はない。

僕には他人にかまっている時間はない。

自分の価値観を他人に押しつけるのは傲慢だ。

これらを悟る。悟ったなら、改める。

 愛の反対は憎しみではなく無関心、と聞いたことがある。

僕は全人類を愛するなんてできない。

同じ職場の人でさえ全員を愛するなんてできない。

だから無関心が愛の反対だとしても僕は無関心になりたい。

万人を愛せなくても、愛すべき人を愛せたらいいから。

 あきらめスイッチを入れるための言葉。

変わらない

変えられない

しかたない

これでいい

これらを心の口癖にしていこう。

負け犬になるかな?

まあ実際負け犬だからいいのだけれど。

負け犬だと認めず、まだ勝てると思っているからしんどいわけだし。

アイム・ア・ルーザー

アマルーザ

アマルーザってビジュアル系のバンド名みたい。

アーマールザとすると高名な僧侶のサンスクリットの名前みたいでかっこいい。

僕は今日からアーマールザになります。

 

無関心万歳

横断歩道の左側を自転車で走っていると反対から400㏄バイクくらいのぶっといタイヤをはいた自転車がやってきた。

乗ってるやつは火のついたタバコを手にした若い男。

こちらが進行方向左によけようとすると相手も同じ方向に自転車を向けてくる。

右によけるか左によけるか、お互いが右往左往して互いに自転車を止め足をついた。

僕は、「自転車は左、ね」と軽く注意した。

「俺のほうがどっちかって言うと左走ってるじゃねえか」という返事が返ってきた。

 ここ1か月ほど人に興味を持たない努力をしている。

でもたまにこういうことをしてしまう。

若者の反応からはっきりと理解した。

僕には他人の生き方を改めさせるような力はなく、めんどくさいおやじが絡んできたと思われ、なめられるだけだ。

僕の価値観が絶対に正しいという保証もなく、争いだけを生んでいる。

疲れた。

このままいくと死にたくなりそうだ。

死なないとは思うけど。

他人に無関心になるコツがあと少しでつかめそうだと思うたびに、こんな絡みかたをしてしまう。

ほんとに、ほんとに人に興味を持ちたくない。

「人に興味の無い、人に無関心の生き方はさみしいよ」と言う人もいる。

バカいうな。

みんな他人に無関心で生きてる。

だからルールを守らないやつらばかり。

あぁ、僕も無関心になりたい。

無関心万歳。

どうしても興味が

職場にいるやっかいなおばさん。

人の話を聞かない。

自分の話ばかりする。人が話していても話題を奪って自分の話をははじめる。

珍しく人に質問してきたなと思ったら、質問された人が答えはじめたらすぐ話題を奪う。

ずっとしゃべっている。仕事の手を止めてしゃべる。

自称、人に気をつかいすぎて疲れるらしい。

ぞっとする話を聞くとすぐ鳥肌を立てる。そして、「鳥肌たった」とアピールする。鳥肌コントロール

人の話にすぐ感動する。「涙が出そう」とよく言う。出てない。

相談されてもいないのにアドバイスをはじめる。

聞かれてもいないのに自分の体験を語りはじめる。

政治のことは裏の裏まで知っているらしく、陰謀に詳しい。国家機密も知っている。

「自分はきれいではないから若いころもてなかった。でもそれで良かった。危ない目にあわずにすんだから」という話をよくする。その話をされるたびみんな沈黙する。

「この職場は今までのなかで一番居心地がいい。これまで人間関係で悩むことが多かったから。今は苦手な人がいない」とみんなの前で言う。どこでも人間関係のトラブルを発生させていたと自分で暴露しただけ。みなが我慢しているから居心地が良いだけと気づけない。

「間違ってたら遠慮無く注意してね」「自分は一番仕事ができない新参者だから」「いつも⚪⚪さんがいてくれてほんとに助かります」「⚪⚪さん、絶対やめないでくださいね」といった言葉の真意は全て反対にある。

最初、このおばさんのことを大嫌いだった。

いなくなればいいと思っていた。

でも今は違う。

そのおばあさんがいてくれるから調和が保たれていると思うようになった。

おばさんは少なくともみんなの負の感情を請け負ってくれる。

おばさんがいなければ別の人がその役を引き受けるだけだ。

銀座、六本木、表参道、渋谷、池袋、上野、浅草等々。

それぞれの街に似合う人たちがいる。

個性のある街や人が集まってこそ豊かな都市。

どんな人でも排除するべきではないとおばさんから学んでいる。

おばさんかいるから人の言動に感情を動かさない訓練ができる。

人に無関心になる訓練ができる。

人なんて関係ない、人になんて興味がない。

僕が学ぶべきものを身につける手伝いをしてくれるおばさん。

ただ、どういう体験を積んだらこれほど身勝手で鈍感な人になれるのかってとこにどうしても興味を持ってしまう。

そこがつらい。

目立たない、でも、役に立つ

他人を批判したくなってもグッとこらえる努力をしている。

すると自分の内面に意識が向く。

 

言ってることと本音が違う。

自分以外の人をバカにしている。

自分のことしか考えていない。

指示した通りに仕事をしない。

やってますアピールが激しい。

ミスしても謝らない。

気が利かない。

がさつ。

ケチ。

暗い。

最近僕が他人を批判するために使った言葉たち。

落ち着いてみると人を批判したポイントは自分も持っているものだと気づく。

悪口を言ったあとの嫌悪感がひどい。

悪口は人に向けられた言葉のはずだが、ほんとは自分に向けられたものであることをわかっているのだろう。

人のことを悪く言うことで自分はその悪い部分を持っていないとアピールする。

そのアピールは逆効果だとは気づけない。

 

話す内容、使う言葉、ファッション、立ち居振る舞いetc

自分が演出する自分は、他人に見せたい自分だ。

過剰な関西弁。威圧的な言動。過度な丁寧さ。若づくりなファッション。場にそぐわないお洒落。髭。

相手に持たせたい自分のイメージが赤裸々過ぎて恥ずかしくなる。

裸で歩いているようなものだ。

それが僕だ。

なめられたくないという演出をするからなめられる。

僕は有能だという演出をするから無能だと見抜かれる。

内面が充実していけば外面へのこだわりは弱くなっていくはずだ。

だから僕はまず外面へのこだわりを意図的に無くしていった。

髪を伸ばし六四分けにして、髭を剃り、日常の作業着はTシャツにジーパンで固定した。

普通より普通っぽい中年おやじになろうとしている。

おかげで外面へのこだわりは大分なくなった。

外面にこだわらなくなるのと比例して内面へ意識が向く時間も長くなっている。

形から入るのも間違いではない。

他人にどう見られているかを気にしなくなれば、他人の言動ももっと気にならなくなるはず。

僕自身が目立たなくなり、癖がなくなっていくにつれ僕の行為は世の中の役に立っていく。

そんな人になりたい。

南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)

人とはうまくやればいい

44歳の秋にきて大きな気づきがあった。

「人とはうまく付き合えばいい」

これだ。

人と接するときに僕は無意識のうちに2つの「すべきである」という考えに縛られてきた。

ひとつは誠意を持って人と接するべきというもの。

もうひとつは正論を貫くために現実を変える努力をすべきというもの。

誠意とは裏表のない態度のことで、簡単に言えば好き嫌い、喜怒哀楽をトラブルにならない程度に表現しながら人と接するというもの。

正論とは主観的な道徳的価値観で物事を善悪にふりわけて解釈し、善を押し通そうとすること。

僕はずっとこの2つのルールに則って人と接してきた。

トラブルが続出する人生だった。

好きを態度に表すのならまだしも、嫌いまで態度に表して良い人間関係を築けるはずがない。

嘘をつくな。不倫はするな。真面目にやれ。怠けるな。株は安いときに買い、高いときに売れ。バットにボールを当てて野手のいないところに飛ばせ。世界人類を等しく愛せ。等々。正論言われても、「で?」としか思われない。

その結果は今。

居場所がなくなり流浪の人生となっている。

もう後がない44歳の秋。一応、実りの秋。 

ここにきてやっとわかってきた。

べきであるという考えはやめるべきである。

べきであるという考えのもとに行動して、理想の環境を作れたためしは一度もない。

べきであるは相手も自分も縛りつける。

縛り付けた結果は相手より自分の方により多くはね返ってきて、居場所を失い続けてきた。 

誠意と正論で生きれば道は開ける、正直者はバカをみないと信じてきた。

間違っていた。

誠意と正論を持ちつつ、人とはうまく付き合えばよかったのだ。

自分の価値観を人に押し付けない。

べきであるからは解放されるべきである。

やっとわかった。

うまくやるのはずるくない。

うまくやることで自分の居場所も、人の居場所も作ってあげられる。

人のことをバカだ、アホだ、能無しだ、なんであんな奴が俺よりいい女連れて多く稼いでるんだ、等々、思ってもいい。ひがんでもいい。

それは心のなかにとどめておいて、その人とうまくやっていけばいい。

気持ちを表に出して相手を罵るのもいいけど、心の中で罵るのもそこそこ面白いってこともわかってきたし。ひひひ。

人は関係ない。

人に興味はない。

人とはうまくやればいい。

べきであるはやめるべきだ。心の中で罵ろう!

楽に生きられるようになってきているのを実感する44歳の秋。

この気持ちを収穫して、美味しくいただきます。

はりきらず、そこにいる

人から相談を受ける。信頼されているような気がして嬉しい。はりきる。

相談を持ちかけた相手からしたら誰かに言いたかっただけで、赤の他人でなければ誰でもよかった。

相談してきた本人がすでに出しているが気づいていない答えにたどり着くために利用されたけだ。

でもそれはそれで人の役に立っている。

相談者は犬や猫を相手にしたのでは答えにたどり着けない。

相槌や共感、受け入れる気のないアドバイスをもらうことで相談者は気持ちを整理できる。

誰でもいいのだが、人間でなければならない。

そういった点で、誰でもよかった誰かに選ばれ、相談を持ちかけられたことには意味がある。

自分が人間としてただそこに存在し、話を聞くだけで人の役に立っていると感じられ、なんの見返りも求めないでいられるのであれば相談にのればいい。

というかそういう人しか相談になんかのれない。

頼られた気がして嬉しくなり、はりきって相談にのるような奴は相談を受けてはいけない。

そういう奴は相談者を自分の意図する方向に導こうとする。

するとすでに自分の中に答えを持っている相談者は反発する。

するともっと力んでアドバイスをする。

相談者の反発はさらに強くなる。

最後には、「アドバイスを受け入れる気がないなら最初から相談なんてもちかけるなよ」とイラついて終わる。

そこにいて相手の感情を受け入れながら話を聞き、意見ではなく、ただ感じたことだけを伝える。

それができる人しか相談にはのれない。

アドバイスしたい。感謝されたい。

そんな思いを持ちながら相談を受けるなんてもっての他だ。

だから僕は相談にはのらない。