元気な大人がオムツして
人にアドバイス、ましてや説教をするなんておこがましいし、バカバカしい。意味がない。
この一年、かっこつけた上司と生意気な後輩に接してわかった。
上司の説教は僕の心には届かなかった。
僕が一生懸命するアドバイスは後輩の遅刻ひとつも改めさせられなかった。
人との関わり方でもうひとつわかったことがある。
相談にみせかけた愚痴に真剣に付き合う必要はないということ。
人の相談にのるのは楽ではない。
本人の話を聞き、本人とその話に登場する人物との関係を考え、本人を含めた登場人物全員の気持ちを想像する。
大した作業だ。そりゃ、疲れる。
すぐにアドバイスしたがる人は相談を受ける苦しみを放棄した人たちだ。
人の気持ちを想像し、理解し、共感する作業はつかれる。
だからアドバイスに逃げたくなる。
僕はアドバイスはしない。
ただ真剣に聞くことは心がけているつもりだ。
だからとても疲れる。
だから真剣に話を聞けば聞くだけ、それが相談などではなく愚痴だったときのショックは大きい。
「俺の時間と労力をどうしてくれるんだ」という気持ちにもなる。
つい最近も相談にみせかけた愚痴にのっかってしまい、とても疲れた。
翌日になると相談した相手はケロッとしている。
「いやぁ、僕の心配しすぎでした。大した問題にならずに終わりました」とあっさり言う。
大した問題にならなかったのはいいことだ。
でもその軽いノリの報告は違う。
相談にのった人の時間と労力を軽くみてはいけない。
僕はローガンとして
他人のことなんて関係ない
他人のことなんて興味がない
の2つを掲げている。
愚痴を聞かされて疲れて、その後の軽いノリを残念がるのもこの2つを徹底できていないからだ。
他人の愚痴なんて聞き流せばいい。
相談にみせかけた愚痴をこぼす奴は自分で消化できない感情を言葉に変えて垂れ流しているだけだ。
自分の感情を処理するために人を巻き込むガキ。糞尿の処理を他人にまかせるクソガキだ。
糞尿レベルの愚痴なら犬、ネコ相手にぼやいてろ。
俺はてめぇの母ちゃんじゃねぇんだ、バカヤロウ。
ということで今後はクソみたいな愚痴をこぼして人の時間と労力を奪う奴はみんなオムツつけたマザコン野郎と認定する。
関係ない、興味がない
他人を変えようとするな。変わるなら自分だ。
好きなことだけを好きなようなやり方でやり、やりたくないことはやらない人間が得をするように世の中はできている。
議論は声のでかい人間が勝つ。
気をつかわない人間と戦っても、気をつかう側は息が続かず負ける。
気をつかわない、気が利かない奴は気をつかわない、気が利かない以上は最強だ。
怖いものがない。
僕は他人を無視することにする。
これまで他人にさんざん興味を持ってきた。人の存在を無視できなかった。そのため怒りを感じる場面が多かった。怒りを相手にぶつけることもあった。
もうつかれた。今までと同じレベルで人に興味を持っていたら身がもたない。
ありがたいことに最近、人を無視する感覚がわかってきた。他人をスルーする。他人に関心を持たない。
我慢ができるようになったのとは違う。相手の立場を思いやれるようになったのとも違う。
スルーするという感覚が肌でわかるようになってきた。
今がチャンスだ。
一生分の他人への関心は、これまでですべて使い果たしたはずだ。
僕の心の口癖を、「僕には関係ない」「僕には興味がない」にしようと思う。
関心と無関心の中間の感覚を身につけるのが健康的だとはわかっているけどできない。極端に左に行って痛い目をみて、それがきっかけで極端に右に行って痛い目をみて、やっと真ん中がとれるようになるのが僕の性格だから仕方ない。
かんけいない
きょうみがない
このふたつをお題目のように心で唱えよう。
はやく関心と無関心の真ん中が取れるようになるためにも、今は極端に無関心になろう。
かんけいない
かんけいない
きょうみがない
きょうみがない
南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)
幸せな死に方
何かに無我夢中になって取り組んでいるときに死ねたら最高だ。
恐怖も不安もなく気づいたら死んでた。
死に方としたらそれがいい。
死ぬのが怖くてたまらない。
当たり前だが死にたくない。
死にたくないは生きたいたいうこと。
生きるとは今ここでやるべきことをやるということ。
今この瞬間に無我夢中になる。
無我。我を無くす。やっているという意識を無くす。
布団をたたむ、顔を洗う、歯を磨く、仕事をする、料理をする、食事をする、入浴する。
日常の行動すべてをやっているという感覚を忘れるくらいに集中してやる。
これが生きるということだと思う。
生きている間は死を意識しなくてもすむ。
でも何かに無我夢中になれるのも健康あっての話した。
病気になって動けなくなったら。
病院のベットの上でただじっと痛みや苦しみに耐えながら、その先に見える死と向き合えるだろうか。
自分の心と肉体に向き合うしかない状況でなに無我夢中になればいいのだろう。
会話できる相手が死の恐怖にとらわれた自分の心だけになったと想像してみる。
恐ろしい。逃げたい。でも逃げられない。
日常の雑事のありがたさがわかる。
労働は尊い。
僕は自分の心とだけ向き合って生きられるほど強くない。
山に篭ってひとりで修行するなんてとてもできそうにない。
自分の心と向き合うにしても他人の気配を感じられる場所じゃないと無理だと思う。
そう考えてみると、健康で、働けて、日常生活を普通におくることができること、そだけで実はとても幸せなのだと知れる。ありがたい。
健康、ありがとう。
仕事、ありがとう。
身近な人たち、ありがとう。
知らない大勢の人たち、ありがとう。
残念ながら、この感動はすぐに忘れてしまうけとね。
南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)
死にたくない、は生きたい
物心ついたからずっと、死の恐怖を乗り越えることばかり考えてきた。
自問自答を繰り返してきた40年間だ。
こんな毎日は出家してるのと変わりない。こんなことならとっとと出家してればよかった。
いつかかならず死ぬという恐怖は怒りに変わる。
全ての感情の土台に怒りがあった。
いつかかならず死ぬ。限られた人生の限られた時間を不快にさせる人たち。簡単に言えば僕は僕の思い通りにことを運ばせない人たち対してはどんな些細なことでも怒ってきた。
いつでも、どこでも怒ってきた。
40年間怒り続けてきた。
そして、やっと。
やっとわかってきた。
怒ると自分が損をする。
怒りから良いものは生まれない。
怒っても根本的な解決にはならない。
怒っても自分の思い通りにはならない。
怒ったら味方がいなくなる。
弱い奴ほどすぐ怒る。
すぐ怒る奴はかっこわるい。
これらのことが44歳にしてやっと骨身にしみてわかってきた。
スキンヘッドにしてみたり、ひげを生やしてみたり。
本当は弱っちい人間だから外見でそれを隠そうとしてきた。
売れてるものはかっこ悪い。
多数派はかっこ悪い。
ヘタレの僕が考えそうなことだ。
普通のルックスなのに存在感のある奴が一番かっこいい。
売れてるものにはしょうもないものも多いけど、いいものは確実にある。
少数派は多様性という意味で必要だけど、多数派がいなくなったら人類は滅びてしまう。
どうすれば怒りと疎遠になれるのか。
死への恐怖を乗り越えることだ。
死への恐怖を乗り越えるためには生きることだ。
死にたくないというのは、生きたいという思いの裏返し。
いきる。いかる。一字違い。
身内の幸せを願う。それでいい
ほんとに悩んでいるときはあまり言葉が出ない。
自分が発する言葉の重さがわかる。それを聞かされる相手にかかる負担も想像できる。
重い話を聞かされた相手が被る迷惑を考えると言葉を遠慮してしまう。
もうひとつは聞かされる相手は僕の悩みになんて興味ないだろうから適当に流されて蔑ろにされるのはたまったもんじゃないという思い。
自分にとって一大事であっても、他人にとってはどうでもいいこと。
そりゃ、そうだ、
今、この瞬間でも飢えて死ぬ人、戦争で死ぬ人、心身を不当に傷つけられている人が世界中にはたくさんいる。
でも僕はその人たちのことについて悩みはしない。
他人の痛みを自分の痛みとして感じてしまったら、とてもじゃないけど、まともに生きていけない。
痛み、憎しみ、怒り、嫉妬、不安、孤独、焦りといった他人の感じる負の感情が自分の感情に流れ込んできたら発狂してしまう。
他人は他人だ。
他人は他人と割り切れるから、自分を自分として生きていける。
僕が親身になれるのはごくわずかな人に対してだけだ。
でも世界平和も祈ることはできる。
僕が愛するごくわずかな人たちのためなら。
ごくわずかな人への思いから、世界の人へ思いがつながっていく考え方が仏教にはある。
因縁だ。
僕が支払った千円はどこにいって、誰の役に立つかはわからない。姿、形を変えてその千円から派生したものはいろんなところを駆け巡る。
僕が支払った千円も同じようにたくさんの人の手を経てきた千円だ。
自分だけからはじまり、自分だけで終わるものなんてない。
因縁はすべての人をつなぐ。
ひとりの幸せの先には、たくさんの人の幸せがある。
だから堂々と自分の、身内の、親しい人の幸せを願い、そのために動けばいい。
それが大勢の人の幸せにつながることを信じて。
凡人なんだからどうせ大したことなんてできない。
気負わずやればいい。
生きている間に阿弥陀仏を信じる気持ちを不動のものにして、死んだら極楽に往生して、極楽で阿弥陀仏の指導のもとしばらく修行して、大勢の人を救える菩薩となってこの世に出てきたとき。
そのときこそ親類縁者だけでなく、あらゆる人を救うことができる。
そのときを楽しみにして、今はできるだけ他人に負担をかけないことを心がけよう。
南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)
念仏称える健さん
出しゃばらない。これは大切だ。
44歳。社会的な地位はないにもかかわらず経験からくるプライドだけは強くなっている。
なんにしてもなにかしらの意見を言えるだけの知識は身につけた。そのためどんな場所でもなにかしらの意見は言いたくなる。
「そんなことはわかっている」
「そんなことも知らないのか」
「俺が教えてやろう」
そんな気持ちが言葉に乗る。態度にでる。
そして周りから鬱陶しがられ居場所がなくなる。
この歳になって社会的な地位がないことに感謝すべきだ。
もし地位があり、多少は偉そうにしても許され、居場所が確保される場を与えられていたら、僕は単純に嫌なやつになっていたと思う。
地位なしでよかった。ありがとう。少なくとも今より奢らなくてすむ。
地位なんかより、いつでも死ねる覚悟が欲しい。
僕が欲しいのは必ず菩薩となることが約束された不退転の位だ。
如来と等しい位である正定聚(しょうじょうじゅ)に入りたい。
等しいとはゆくゆく等しくなる、如来になることが約束されているという意味だ。
阿弥陀仏を信仰しない人にとってはどうでもいいことかもしれない。そんな人はごめんね。
簡単に言えば人格者になるということ。性格の良い人。怒らない人。決めつけない人。与えられる人。許す人。救う人。導く人。
今回の人生でそのような人間になるのは無理なので順序がある。
まず阿弥陀仏の救いを深く信じて死んだのち極楽に生まれ変わる。そこで阿弥陀仏からご指導いただき自分が菩薩となり仏となる。そして改めてこの世に生まれて来て多くの人を救う、という流れだ。
まさに大乗仏教。
つまりうまくいけば僕はゆくゆく菩薩となれるわけだ。
そのためには、自分は悪人であると自覚する。
時代や状況が変われば窃盗、強姦、殺人も犯してしまいかねない欲望まみれの人間であると知り、その罪深さに打ちのめされる。
そしてそんな悪人を救ってくださるのは阿弥陀仏しかいないと深く信じて疑わない。これらの条件が必要となる。
この条件がそろった上で、「南無阿弥陀仏」と称えるならば必ず極楽に生まれ変われる。
自分が極悪人だと自覚できるなら、出しゃばる気になんてなれない。
若気の至りで人を殺め15年の刑期を終えてシャバに出た男が人目につかぬよう、過去の罪を背負い労働に励む寡黙な日々を送る。
女の子から言い寄られても、「自分なんて、お嬢さんに好いてもらえるような男じゃありませんから」とお断りする。
イメージとしては、念仏を称える刑務所帰りの高倉健さんだ。
そういう男に僕はなりたいのだと思う。
やっと自分に追いついた
この1ヶ月で急激に白髪が増えてきた、
僕は44歳だ。白髪の多い同級生は普通にいる。
僕には目に入る白髪は一本しかなかった。それがここにきて増えている。
老眼も進んだ。文庫の小説が読みづらい。拡大鏡をメガネの上からかざすとちょうとよい。しかしそれでも疲れるので長時間の集中は難しい。
老いは深刻な問題だ。老いの先には死がある。髪の毛を染めたり、化粧や服装を変えてみたり、整形したりして、老いた自分を意識しないでおこうとする。
僕は中学生くらいから老け顔だった。雰囲気がおっさんだった。
ツムジの流れに沿った髪型をすると天然パーマの髪質と相まって六四分けのおっさんヘアーになる。そこに老け顔がマッチする。
僕は髪型を変えることで自分がかっこよくなれるという意識を持ったことが人生で一度もない。今は自分で髪を切る。少々おかしくなってもボウズにしてしまえばいいと思っているから失敗も怖くない。
それもこれも老け顔、天然パーマのおかげだ。
白髪が増え、肌のハリもなくなってきた今が僕という素材を活かすには最高の時間なのだと思う。
外見と年齢がマッチしてきたわけだ。
今思えば僕は若い頃から早く中年になりたかったのではいか。
幼い頃から憧れて続けている親鸞聖人、法然聖人は中年もしくは初老の人のイメージだった。
僕は幼い頃から中年、初老の人に憧れてきたわけだ。
憧れていた中年。
ここに来て一致する外見と年齢。
僕は僕の人生の中でもっともバランスの良いときを迎えているのかもしれない。
服装なんて大して気にならない。
髪型も寝ぐせがなけりゃいいってくらいのこだわりしかない。
外ヅラなんてどうでもよくなってくる。
数珠を片手に念仏を称える数をかぞえながら街を歩きたい。
僕の心が平安であるためなら他人の目からどう見られようが構わない。
だから数珠を買いに行こうと考えている。
浄土真宗の数珠は地味でカッコ悪いから、浄土宗の数珠にしようかなと思っている。余談だ。
そんなのだけど、出るとこに出たらビシッときめる。
立ち居振る舞いは飾り気のない自然さと優雅さを備えており、釈尊の説法のように穏やかながら重みのある口調で話す。
釈尊の説法は聞いたことがないので勝手なイメージだが。まあそんなふうな中年になりたい。
地位もお金もないから。自分だけが商品だ。
憧れていた中年、外見と中身が一致した中年。
中年になれた今、僕の才能を開花させる時がついにきた。
ナチュラルーボーン・中年
ホーン・トゥ・ビー・中年
ボーン・イン・ザ・CNN(chunen)
地味に目立たず、くそほどクレイジーに生きてやる。