無駄遣いをやめて念仏にまわせ
言葉を慎むことを修行のひとつとして自分に課す。
これで以前決めたお酒とあわせて、慎むものが2つになった。3つにした方が座りがいいからもうひとつ慎むものをこれから探していこう。
気持ちが落ち着かず、揺れているときほど言葉に頼りたくなる。言葉で不安をごまかそうとする。動揺を悟らへれまいとして言葉を重ねる。言わなくてもよいことまで言ってしまう。
言葉で自分の弱さを隠そうとするわけだ。
そんなことを続けていたら自分の弱さをに目を向けられぬまま人生を終えてしまうことになる。
他者に向けて見せたい自分をアピールすることよりも、自分と向き合うことの方が大切だ。
言葉を慎むことで心は自分に向かう。
言葉を口にしたくなったとき、まずは一呼吸おいて言葉を飲み込んで自分に問う。
それは今言うべきことなのか? その言葉の裏に卑しい意図はないか? 自分が言う必要があることなのか?
言葉にする前に一呼吸おいてみると言わないくてもよいことを言おうとしている場面が多いのに気づく。
そこに気づくと、なぜ言わなくてもよいことを言おうとしていたのかと自分に問うことになる。そこから内省がはじまる。
巧言令色鮮なし仁。
口数が多い人間は誰にどう見られているのかばかりを気にして上っ面で人と向き合おうとする。
表ではお世辞を言って媚びへつらいながら裏に回れば舌を出すような生き方はあまりかっこよくない。なによりも単純に嘘つきだ。嘘つきは歓迎されない。
素晴らしいと思ったら素直に賛美し、賛成できないのならその旨を素直に伝えたらいい。言葉を飾る必要はない。
自分が凡人であることを忘れてはならない。問われるべきは他人のあり方ではなく、それに対する自分の姿勢なのだ。
そう考えると人に投げかける言葉よりも、自分自身に問う言葉の方が重みをもってくる。
座禅中にべらべらしゃべったりしない。日常の生活も座禅の延長というイメージを持つ、つまり修行であると考えるなら言葉も減る。
余計な言葉を浪費するより1日7万遍の念仏を称える精進をしろ、っていう話だ。
勉強楽しい。ラッキー!!!
バラバラだった知識が繋がって整理されていく心地よさ。知らなかったことを知る喜び。
勉強は楽しい。そのことがわかってきたのはつい最近だ。
きっかけがある。
専門用語を150文字前後で説明できるようになる勉強をしている。最低でも700語くらいは説明できるようになっておく必要があるのだが今のところ半分しか手をつけられていない。覚えたつもりでもどんどん忘れてく。タイムリミットは迫る。
時間がないからとにかく覚えるために詰め込もうとした。するとまたどんどん忘れていく。
あるとき諦めた。
記憶力、集中力には限界がある。詰め込んで覚えようとしても無理だ。時間はかかるけどしっかり意味を理解しながらひとつずつゆっくりと覚えていくしかない。タイムリミットに間に合わず、試験にパスできないならそれが自分の実力だ。
そう思えるようになってからはゆっくり勉強している。言葉の意味を考え、イメージを膨らませ、丁寧なインプットを心がける。
そうすると勉強が面白くなってきた。
時間はかかる。このペースでは試験に間に合わない。でも僕にはこれしかできない。
楽しくもなく、結果も出せない勉強を無理くり続けるくらいなら、理解して楽しみながら、ゆっくりでも確実に前に進んだ方がいい。
これまでは記憶力が悪く、集中力の弱い自分を責めながら勉強してきた。能力かない、意志が弱い 、ダメな人間だと。
確かにそんな人間ではある。
だったら能力がないことを理由にして諦めるのか? 投げ出すのか? またいつものように逃げるのか?
いや、違う。そうじゃない。やる。今回はやる。
結果はどうなるかわからない。試験にはパスしない可能性が高い。でも最後までやる。
僕にとって大切なのは、試験の結果も自分の能力も自分に責任があるものとしてしっかり受け止められるようになることだ。
途中で投げたら、もうこの先はない。再起は不能だ。妻にも愛想を尽かされるだろう。
最後までやり通せたなら、結果はどうであっても先がある。明確なビジョンは浮かばないが道は開けるという確信がある。
勉強は面白い。成長につながる。
命終わる最後の日まで人生に飽きることなく生きるためには成長しつづけなくてはならない。成長しつづけるなら景色は変わっていく。
そのためにも勉強は大切だ。変わり続けるために。
勉強が面白いと感じられるようになったのはラッキーとしか言いようがないぜ!
逃げないでやる
自分に何かしらの可能性があると信じるなら、他人の可能性も信じられるはずだ。自分の可能性は信じるが、他人の可能性は信じないというのは自分は特別な人間だと思う自惚れだ。
自惚れでいいから欲しい。僕は他人の可能性はもちろんのこと、自分の可能性も信じられていない。
誰にでも仏性はある。誰もが阿弥陀様に救っていただける。誰れもが菩薩になれる。そう信じようとすればするほど他者への怒りが強くなる。
車で危険な運転をするやつ。歩道で道を譲り合わないやつ。口ばかり動かして仕事をしないやつ。言葉と腹の中が違うやつ。家から出るとそんなやつらが目について、外出中は8割ちかくの時間が怒りに費やされる。
ある人からは、「その怒りは正義感の裏返しだ」と指摘された。確かにそれはある。であるなら僕は正しいのか。いや、何か違う。
その怒りは本来は自分自身へ向けられるべきものではないのか。
猛スピードで車を走らせる。人を気にせず譲らず道を占拠して歩く。仕事をせず喋ってばかりいる。口先だけで適当に人との関係を取り繕う。
僕はこんな人間にならないように気をつけている。こんなことをしてたら罪悪感で自分が苦しむだけだからだ。
ここが問題なのだ。罪悪感を抱くからやらないのであって、正義感からというわけではないのだ。
「僕だって我慢してるんだから、てめえもちょっとは我慢しろ、バカヤロウ」という気持ちで僕は怒っている。
僕だって我慢してるというのが本音だ。
つまり僕は自分のケチくささに腹を立てているのだが、その怒りを自分に向けることができず、人に責任をなすりつけているわけだ。
このことから他人への怒りを和らげるためには自分への怒りを和らげる必要があるとわかる。
そのための方法はふたつ。
ひとつは罪悪感を払拭して自分も好き勝手に生きる。
もうひとつは罪悪感に代わる肯定的な価値感を確立することで自分を認めてやる。
前者の方が楽に思えるけど、罪悪感を払拭するのは簡単なことではない。どうしても僕はいい人ぶってしまう。だから後者をめざす。
腹の中と行動が一致しないのは苦しい。その苦しさが外に向かうと僕のように怒りっぽくなり、内に向かう人は心を病む。
外向きと内向きの違いはあっても、自分で自分を壊してしまうという結末は同じだ。
自分を認める。そのためには自分で納得できる価値感を確立する。そしてその価値感に沿って自然に生きる。
価値感を確立するためには多少苦しまないと仕方ない。「お前最近よく張張ってるな。気持ちを切りかえたな」と自分で自分にいってやれるくらいの努力は必要だ。
そのためには目の前にあるものから逃げずに、コツコツ積み上げる。自分で自分を信用してやる。やはりそこに行きつく。
つまりこれまで目の前にあるものから逃げ続け、何も積み上げてこなかったってことなんだけどね。
なんまいだー なんまいだー
地獄行き、再確認
お金さえあれば幸せだなんて本気で思っている人は少なくとも僕のまわりにはいない。お金が全てではないことはわかっている。お金はある特定の幸せを感じるためのひとつのツールにしかすぎない。お金がないことと不幸せはイコールではないのだ。
お金が無くても愛する人と一緒にいられるなら幸せだ。お金がなくても人間関係が良好なら幸せだ。お金が無くても毎日元気に働けるなら幸せだ。
ただしお金があって愛する人と一緒にいられる、お金があって人間関係が良好である、お金があって毎日元気に働けるなら尚のこと幸せだ。
そしてお金がなくて愛する人もいない、お金がなくて人との争いが絶えず、お金がなくて体調が悪く仕事もできないのは辛いだろう。
お金が無くても幸せというのは嘘ではないが、お金があればもっと楽しいのは間違いない。
お金に自分がコントロールされてしまうことがマズイのであって、お金が悪いのではない。
僕なんかはお金を持ってしまうとかなり嫌な奴になると確信している。人を見下して、偉そうに振る舞いはじめるのは確実だ。
奢ってやるから酒でも飲もうと自分の都合で人を呼び出して、終電がなくなればタクシー代を渡して帰らせて、そのあと自分は夜の街で女遊びをする。
お金によって自分をコントロールできなくなるのに比例して他人のことを都合よくコントロールしようとしはじめるだろう。
僕みたいな人間にとってはお金があることが不幸につながるのかもしれない。当の本人である僕はその時には気づかないだろうけど。
お金が欲しいと僕は強く思う。お金を持つとろくなことにならない僕みたいな人間ほどお金に対する執着が強いのではなかろうか。
お金が欲しいのに手に入らない。そんな状況を自分に納得させるため自問自答する。
「阿弥陀様への信仰心をお金に変えれば55億円もらえる。ただし阿弥陀様への信仰心は2度ともどらないとしたら、どうする? 55億円なんていらないはずだ。お金なんてその程度のものだ」
そうだ、その通りだ。僕には阿弥陀様がいてくださる。救ってくださる。じっと見守ってくださる。それを知ることができたことが僕にとってのかけがえのない財産ではないか。
でもなぁ、55億円もらって阿弥陀様への信仰心を失ったとしても、大日如来、薬師如来、釈迦如来等々、他の如来方もおられるからそっちの信仰心をゲットすればオッケーって考え方もあるよなぁ。
やはり僕は地獄行きだ。悪人だ。お金以前の問題だ。
阿弥陀様、ごめんなさい!
問うことから、答えることへ
「なぜ私がこんな目に合わなくてはならないのか?」
苦しいこと、悲しいことが自分の身に起こるとそう考えてしまう。
その問いを
「人生が私になにを求めているのか?」
に変える。
そうすることで生きること自体が問いに対する答えになる。
自分が誰かに何かを望んでいるうちは、「なぜ?」という問いが頻発する。自分には責任がない、あいつが悪い、社会が悪い、世の中は不公平だと不満が募る。
人生が僕に望むものは何かという問いを身近なものに置き換えてみるとわかりやすい。
妻が僕に望むものは何か。年老いた両親が僕に望むものは何か。職場の仲間が僕に望むものは何か。そうやって考えていくことで生きることへの責任感が生まれてくる。
「阿弥陀様は僕に何を望んでおられるだろうか?」と考えてみることがある。
人生が僕に何を求めているのかという問いではしっくりこないから、阿弥陀様にご登場願っている。
阿弥陀様は僕に直接語りかけてはこられない。黙ってじっと僕を見続けてくださっている。阿弥陀様の慈悲が僕の身の回りにあふれていることに気づくのをじっと待ってくださっている。阿弥陀様はお優しいから先人たちや、周囲の人を介して阿弥陀様の慈悲に気づくためのヒントを投げかけてくださっている。鈍感な僕はそれに気づかない。
誰かがいつも黙って見ていてくれる。これは恐ろしいことでもあり、嬉しいことでもある。孤独ではない。どんな人生でも生きる意味があるということなのだ。
インド洋のど真ん中でただ一人海に放り出され、誰にも気づかれず浮いたまま死にもせず何日もさまよっているなかで阿弥陀様が見ていてくださっているとあきらめず信じ続けられるだろうか。阿弥陀様でなくてもいい、妻が、両親が、誰かが、仕事でもいい、僕の帰りを待っていると信じ続けることができるだろうか。(阿弥陀様がおられる場所は極楽浄土だから、帰りを待つイコール死ぬのを待ってるという意味にも取れそうだけどそれはない、絶対違う!)
誰からも必要とされていない。誰も僕を待ってなんていない。誰も僕を見てくれてなんていない。
そう思ったとき、あきらめる。その先に死がある。
阿弥陀様でも家族でも仲間でも誰だっていい。自分を見続けてくれる人を探すことだ。必ずいる。
とりあえず阿弥陀様は万人をへだたりなく見てくださっている。
初めて泣かされた法話
ありのままの自分を認める。ありのままに他者も認める。
ありのままの自分を認められないのなら、ありのままの他者も認められない。拒絶から争いへと進む。
僕は完璧じゃない。だったら他の人も完璧じゃないはずなのに他者には自分に対してよりも厳しく正しい姿を求めてしまう。
自分を謙虚にみせながら、他者を非難するなんてのがある。「差別ってほんとに悪だ。俺の心にもそんなところがあるってことが〇〇を見ててほんとによくわかったよ」ってな感じのやり方だ。
自分は反省してる人で〇〇は差別者だと言ってる。
自分の差別心を問題にしているなら〇〇なんて個人名を出す必要はない。この言動の真意は自分を恥じているのではなく、〇〇を差別者として責めたいのだ。
僕はこのパターンをよくやってしまう。
他者をストレートに批判するのではなく、歪んだ批判の仕方なだけにタチが悪い。性格が醜い。嫌なやつだ。
と、こういうふうに自分で自分を責めてみて反省しているかのように振る舞うのも、またずるい。
「僕は自分の欠点をちゃんと知ってます。反省しようとしています。だからお前はこのことについて指摘するな」という意味なのだ。だから、から後ろが本音になる。
私は悪人でございます。欲望まみれでございます。様々な条件がそろえば盗みも殺しをしてしまうかもしれません。あぁ嘆かわしい。
と言ってみたところで、僕の言葉には重みがない。
ほんとに自分の悪を自覚している人の言葉は理解する前に体が反応してしまう。じっとしていられなくなる。
「悪いことをしても責めもせず、罰も与えず、ただジィッと見ておられるお方が一番怖いものです」
ある浄土真宗のお坊さんのこの一言のあと、説教を聞いていた多勢の人が涙して、南無阿弥陀仏と称えはじめた。
話の流れはこうだ。
戦争中の食糧難の時代、男が他人の畑に入りスイカを盗もうとした。幼い子供も一緒だった。男がスイカを手にとったとき、子供が空を見上げて言った。
「お父さん。お月様が見ているね」
男は手に取ったスイカを元に戻した。
それ以降、どんなに苦しくても男は盗みを二度としようとしなかった。
そののち大きくなった子供がある僧侶に言った。
「あの時、お月様が見ていてくれてよかったです。もしお月様が見ていてくれなければ僕は盗人として育っていたことでしょう」
お月様は見ていない。有機物ではないから見られないに決まってる。
でもその子供の妄想が二人の人間の生き方を変えたのだ。ただじっとそこにいる月があったおかげで。
自分に合掌 他人に合掌
いろんな才能を持つ人がいて、いろんな考え方や価値観があり、いろんな性格の人がいて、いろんな趣味嗜好があるから世界はこれだけいろいろなものであふれている。
いろいろなものがあることは豊かな証拠だ。若い頃はわからなかった。ひとつの価値観をみんなで共有すれば平和になると考えていた。自分の価値観とは異なるものを認めるのが苦手だった。心の狭い人間だった。
信じるものにすがり、認められないものは否定する。若い頃の僕はそうやって自分の輪郭をはっきりさせようとした。
四十も半ばを迎える今は自分の輪郭をはっきりさせることより、自分の内側を理解することに興味が向いている。
服装や髪型はある意味ではどうだっていいと思えるようになってきた。そんなもので僕の本質は表現できない。外見から判断された僕は僕ではない。僕が他人に見せたい僕ってだけだ。
外から見えない秘めたところに何を持つのかによって人生の豊かさが変わってくることを年齢を重ねると実感する。
肉体は滅びに向かうのが人生だ。死に近づいていくと、死によっても滅びないものに意識が向きはじめるのは自然なことだ。
いつまでも物質としての自分にこだわり続けるのはつらい。
お金をかけて若く見える仕掛けを肉体や外見にほどこし続けても限界はくる。限界がきたときにはそれまでに培っておくべきだった死への心の準備ができていない。肉体は衰え自由が効かない悲しみのなかで死と向き合わなくてはならない。こわい。
死への準備をはじめる。それは残りの人生をより良く自分らしく自然に生きてゆくということだ。
あの世に持っていけるのはこの心ひとつ。心は肉体とは違い衰えない。僕は変わり続けている。だからわかる。心の成長は止まらない。
次回の人生では若い頃から自分とは異なる価値観を受け入れられる人間になりたい。そのために僕は人を受け入れていく練習を今から意識してやる。まだまだ心を成長させていく。
人を受け入れるためには、まずは自分を受け入れることだ。自己受容と他者受容は連動しながら度合いを増していくらしい。
人は誰もが阿弥陀仏に救っていただける。
全ての人には仏性がある。
僕も他人もみんな菩薩となる可能性を持っている。
まずはそこから。
Rin-nengでございました。ご無礼いたしました。