プラス呼吸法で地獄に仏

一日一食と合わせて、呼吸法もはじめた。

 

鼻から吸い、鼻から吐く。

吸ったときには下っ腹を膨らませるように、吐くときは下っ腹をへこませるように意識する。

ある程度吐いたら呼吸を止めて腹筋を背骨に引き寄せるイメージでお腹をへこませる。

へこませたら腹筋を上に持ち上げるようなイメージでよりへこませる。

できるところまでへこませたら力を抜きお腹も元にもどしてから空気を吸う。

 

少しだけ動画をみた。基本的には我流だけど。気持ちいいから続けている。

徒歩での信号待ちのとき、本屋で立ち読みするときなど、お腹をへこませるのが気持ちいい。へこませられる隙を見つけたら、へこましている。

やりはじめて翌日にはお腹が筋肉痛になった。一食しか食べていないのに2度便通があった。だから効果は確信している。

 

一日一食と呼吸法により気づいたこと。一日一食だからといって大食は完全にアウトだ。翌朝がきつい。腹がはり、胸やけがする。大食した食材に肉が含まれる場合はなおのことだ。便が出ない。

少食よりも大食の方が便の出が悪いとは妙な話だ。入れるから出るはずなのに。これにより食べ過ぎは体に毒素を蓄積するということが理解できた。

 

少食と深い呼吸、今やるべきとこを力まずやる。

これを基本にすることで、人生がどんどん楽になっているのを実感する。

とはいえ不平や不満、煩悩が人一倍多い僕だから人様と比べたら未だに地獄の住人ではある。

地獄はそれこそ自分の住処なのだから仕方ない。地獄の中での救いの話だ。

死んでも学ぶ、そしてまた生まれる

「明日死ぬかのように生きなさい。永遠に生きるかのように学びなさい(byガンジー)」

僕が求め続けた生き方を的確に表してくれる言葉に出会った。

結果を出すことだけにとらわれずコツコツと努力を重ねる毎日こそが幸せをもたらしてくれると気づいた矢先にこの言葉に出会えた。

10年前の僕なら、「明日死ぬかのように生きるのなら、今この瞬間の時間を学びになんて使うものか」と思っていただろう。「使えば汚れるのに洗濯物や食器を洗ってなんになる」と同じだ。明日死ぬのに学んでなんになるってことだ。明日死ぬなら死ぬことを忘れるために大酒を飲んで、友だちと大騒ぎをしてやると考えていた。だからその頃は毎日大酒を飲んで明日のことを忘れようとしていた。

そんなのだから苦しかったなぁ、生まれてこのかたずっと。

明日死ぬならいつもと同じ一日を昨日よりもっと真剣に生きてみようと今なら思う。丁寧に布団をたたみ、丁寧に顔を洗い髭を剃り、お客様のことを第一に考えた仕事をして、帰ったら集中して勉強し、ご飯をじっくり味わって、体を綺麗に洗う。

酒を飲んで正気を失って死ぬなんてごめんだ。はっきりした意識で、今日やるべきことをやった充実感のなかで死にたい。今はそう思う。

人生も折り返し地点を迎え、老眼もはじまり、白髪も生えてきた。

でも肉体的に衰えた分だけ、精神的な実りが得られる人生になってゆく確信がある。10年前と比べると生きるのがとても楽になってきた。楽になってきた分だけ自分への厳しさを増そうとも思う。

自分に厳しく他人に優しくなればなるほど人生を楽しく生きられそうなイメージがある。

自分が救われる可能性があるなら、他人も同じように救われる可能性がある。また救われた自分は救われた喜びに浸るだけでなく、人を救う菩薩行に入る。そういった他力本願の真髄に早くたどり着きたい。だから死ぬまで学ぶ。死んでからも学ぶ。

そして還相回向でまたこの世に戻ってくるぜ。

 

この気持ちを忘れずに

固形物抜きの3日間第2回目を明日終える。今の気持ちを忘れないようにメモしておく。喉元を過ぎるといろんなことを忘れていくから。

まずひとつめは一日一食はこれからも続ける。3日間の固形物抜きを2回も体験したら、一日一食でも結構な頻度で食事をしてるって感覚になる。

ふたつめとしては、ひとつめの感覚を忘れず、一日一食で食べる量もこれまでの7割くらいの量にしようかなと思う。お米は0.5合くらいにしたいと考えている。

3つめはは一食の食事をたまには野菜とフルーツ、野菜とヨーグルト、ヨーグルトとフルーツだけの日も作ろうと思う。そうしてみて精神的な変化はあるのか、翌日の排便はどうなるか、体重は変化するのかなどを試してみたい。

4つめ、1日だけ固形物抜きをする日を定期的に設けようと思う。まとめて3日胃腸を休めるのパターンだけではなく、定期的に軽い小休止を胃腸に与えた場合の変化も体験してみたい。固形物を3日食べなくても病的に痩せていくわけではない。3日くらいなら固形物を摂らなくても飢えないし、身体に悪いわけではないことは確信した。ただ人と付き合っていく上で3日食べない日を確保するのは難しい。

 

脂肪が落ちるのではなく筋肉から落ちるので健康的ではないという説もあるが、それは別にそれでいい。必要最低限の筋肉を残すところまではまず筋肉が消費され、そこから脂肪が燃えはじめるというなら、最小限の筋肉量になるまでは筋肉が減ることで身体が軽くなるなら不満はない。マッチョになりたいわけじゃないから。

とにかく食べる量を減らす。それは決して痩せることだけが目標ではなく、食に対する感謝を深めたいという思いからだ。そういうところが研ぎ澄まされたなければ人生の危機を直観的に乗り越えられる男にはなれない気がする。

心身ともに研ぎ澄まされたい。この気持ちを忘れずに。

固形物抜き3日目

「固形物を口にしない3日間」第2回目の3日目の朝を迎えた。

今現在で特に空腹は感じない。ただ喉の渇きと糖分を欲することから、水に岩塩、果和糖、レモン汁を混ぜたものを朝一発目に飲む。喉の渇きと糖分を欲する気持ちがこれで落ち着く。

空腹感に関しては昨晩、つまり2日目の夜がきつかった。きついといっても決してイライラするわけではなく、「食べたいなぁ。固形物を口にしようかなぁ。1日は我慢したんだからこれで十分だよなぁ」といった食欲に負けさせようとする誘惑がひどいだけだ。

その誘惑も「ほうれん草のスヌージー風味噌汁」をコップ1杯飲むことで見事に消え去る。350ccくらい飲んだ。

食欲が落ち着いたあとは紅茶に生姜と砂糖を加えて飲めば、寝るまでの時間の意識を空腹感に奪われることなく有意義に過ごせた。

 

排便は3日間とも朝にあった。固形物を食べていないのに固形物が排泄されるのだから、僕の体にはたくさんの不要物があるようだ。

排便があるということは身体が引き締まり体重も減るということ。食べてないのに出るというのが固形物抜きの喜びのひとつだ。

 

 3日目の今の状態としては身体が軽い。精神的には普段より少し研ぎ澄まされた感じもある。集中“しよう”とする力が違う。

物事をシンプルに考えられているという感覚もある。減選択肢生活を標榜する僕にとっては望ましい傾向だ。

 

最後に固形物を食べたのが日曜日の夜で、次に食べるのが木曜日の夜、つまり明日の晩の予定だ。

あと34時間ほど。もう一踏ん張り。

減選択肢生活にチャレンジ

ミニマリストとは必要最小限のものしか持たない生活を送る人たちだ。

僕もそういう生活を目指したい。

でもこれもまた“原理主義者”になってしまうと、ただのめんどくさいやつになるだけなので注意が必要だ。

「物理的な選択肢を可能な限り減らしていく生活」

僕が送りたいライフスタイルはこれだというのを自分なりに定義してみるとこうなる。

これまで僕が意識して取り組んでみたのは2つ。

ひとつには着る服で悩まないということ。TPOに合わせて制服化してしまう。あくまでTPOに合わせてというのが重要なところで、それ相応の公の場にジーンズとTシャツで行くような価値観とは違う。不必要なオシャレはしない。内面の欠陥を補うために着る服を選ばないとも言い換えられる。

ふたつには食べるもので悩まないということ。一日一食を実践してみると、「何を食べようか?」「何が食べたいのかわからない」ってことが無くなる。脂っこいものや、極端に味の濃いものでないなら何を食べても美味しいと感じられる。食べたいものがわからないって状態は病気や特定の栄養が不足した場合でないなら、食べ過ぎを意味しているのではないか。

このふたつに取り組み、そこから得た気づきのおかげで、だいぶ生活をシンプルに感じられるようになってきた。

もっともっと生活をシンプルにしたい。そのためには物を捨てる作業が必要になる。

僕の部屋は物で溢れかえっている。必要なのか、そうでないのか、わからない物が多すぎる。思考が整理されていない証拠だ。

最近、部屋にある物の量にうんざりしはじめている。いい心境の変化、チャンスだ。部屋の物の整理をはじめることにする。

本とCDは捨てない。これはルールにしておく。過去に何度も失敗しているからだ。「いつか読むのいつかはこない」というコンマリの説には騙された。機が熟したときに読みたくなったりする。

このあとさっそく捨てる作業に取りかかる。気負わずシンプルに考えて捨てるものを選んでみよう。

今ここからやる

また後で使って汚れるのはわかっているのに、毎回洗わなければならないことがバカらしくて茶碗や洗濯物がどんどん溜まっていく。

生活していたらまたどうせすぐに汚れるのだからと掃除をせず散らかり放題の部屋で暮らす。

どうせ死ぬ。しかもいつ死ぬかわからない。明日かもしれないし、数十年後かもしれない。そんな不安定な人生の何を信じたら将来に向かっての努力をしようという気になどなれず暗く沈んだ日々を過ごしてきた。

 

今から14年ほど前に整理整頓された空間の心地よさを知った。そこから少しだけ掃除ができるようになった。このときから今につながる何かが変わりはじめた。

それから14年かかって、意味や結果にばかりこだわらない、今この瞬間に重点を置いた生き方の大切さを知り、気持ちが楽になってきている。

今、ここでやらない限り、別のどこかでやるチャンスはおとずれない。今ここでやったことの先の先にある結果を受け取ることはできないかもしれないかど、少なくとも次にすべきことは見えてくる。見えてきた次にすべきことをやり、またそこから見えてきた次にすべきことをやる。その繰り返しでいい。

今やることで見えてきた次やるべきことそれ自体が僕の得る結果だ。とても距離の近い結果だけど、それが次に続く尊い結果だ。

原因が結果を生み、その結果がまた何かの原因となって次の結果を生む。人生は続いている。繋がっている。時間も人もどこかでどこまでも繋がっている。

もう若い頃の、「どうせ死ぬんだから、頑張ったって意味ないよ」って感覚には戻りたくない。よくそんな苦しい気持ちで生活していたものだと今になればゾッとする。

僕は若い頃の気持ちを忘れつつある。音楽を聴いても、映画を観ても、お酒を飲んでいても、あの頃の感覚は蘇ってこない。これが顕著になったのは7年ほど前からだ。若い頃の僕と今の僕との感情的な繋がりがそれほど強くなくなってきた。

それでいいんだと思う。今これからを生きるためには苦しかった時期をいつまでも引っ張っておく必要はない。

今、ここからやるだけだ。

贅沢は僕をダメにする/一日一食

一日一食をはじめてから1ヶ月半が過ぎた。一日一食をはじめた結果だろうと思われる変化をまとめる。

 

・体重の減少

増減の範囲を考慮しても4kgは落ちた。

 

・全体的に身体が細くなった。

無理やり履くとお腹の脂肪が上に乗り、しゃがむことも至難の技になっていたジーンズパンツがジャストフィットくらいの感覚ではけるようになった。

 

・シンプルな食べものこそ美味しく感じる

一日一食しか食べられないのだから、はりきって豪華なものを欲しくなると思いきや、ご飯とお漬物に野菜のお味噌汁といったシンプルな食べ物こそ美味しいと感じ求めるようになった。学生に人気のラーメンなんか食べた日には胃がもたれ気持ち悪くて後悔しかない。

 

・お酒の量が減る/飲まない日が増える

平日の晩酌は超うすーいハイボール2杯も飲めばやめられる。または飲まなくても平気になった。

 

・空腹時こそ頭が働く

お腹が減ったときにこそ、質の高い思考ができることがわかった。集中力が増し、気づきが増える。ただし個人比である。

 

・等身大の自分を認められるようになりつつある

集中力があがっても東大、京大をめざせるような頭脳になったわけではない。相変わらずの記憶力ではある。でもそれを嘆いて結果を心配し無為に過ごすよりは一歩でも自分なりに前に進むことで得た結果が自分にとって最良のものになると思えるようになってきた。これが一番大きな変化だと思っている。

 

細かい変化はもっとある。でもだいたいここで紹介した枠のなかに入るものばかりだ。

一日一食とはいえお昼にはフルーツを食べたりする。熱中症対策で飴をなめたり、コーヒーも飲む。そんなゆるゆるな一日一食でもこんなに変化はたくさんある。

とにかくこれまでは食べ過ぎ、飲み過ぎていた。贅沢をしてきてたのがよくわかる。贅沢は敵とまでは言わないが、贅沢はそれを自分の意思でコントロールできない僕みたいな人間にとっては時間と健康という人生にとって大切なものを無駄にさせる。

悟りを目指すなら贅沢とは距離を置いた方がよい。