お礼でのぼせるバカ
僕はアドバイスと説教が大好きだった。価値観を押し付ける気持ち良さ、相手を従わせる気持ち良さを味わうためにアドバイスと説教三昧の日々を送っていた。
だからわかる。アドバイスや説教を好む人間は基本的に自己中心的な性格だ。そのくせ自分は周囲に気をつかっている、なんなら自分は誰よりも謙虚だ、くらいに思っているからタチがわるい。
アドバイスや説教をする奴らは自分がするアドバイスや説教の内容を自分では実行できていると思っているところが厄介だ。
アドバイスや説教をすることで自分は出来ていると思いたいだけなのに気づけない。
こいつバカだなと思った典型的な例を挙げる。
ある人の悪口をみんなで言っていた(褒められたことではないが僕も悪口に参加した。ただし「こうすればいいのに、ああすればいいのに」というアドバイスの類は口にしていない。純粋に対象者の行動に対する自分の気持ちだけを述べた)。悪口の対象者はかなり嫌味な奴なので誰もが悪口に感情がのり、盛況だった。その中であるおばさんが一緒になって悪口を言っていた。なんなら一番きつく言っていた。
ある程度悪口が尽きたころ、そのおばさんが言いはしめた。「まあそんなこんなあるけどもね、悪口を言われてる彼にもいいところがあるし、〇〇さん(僕のこと)も彼から学ぶべきものはたくさんあると思うよ。云々」
これが典型的なアドバイスバカである。
ご多聞にもれずそのおばさんは人が話していても話題を分捕っては自分に振り向けるわ、余計なアドバイスや自慢話はするわで、めんどくささの塊のような人だ。
言っといてやる。 アドバイスや説教によって人は変わるのではない。変わる瞬間にタイミングよくアドバイスや説教が言葉として乗っかっただけだ。
アドバイスをしたあとで、「ありがとう。あなたのおかげで変われたよ」なんてお礼を言ってもらえるのは意識されていないだけで、すでにその時点でその人の悩みは解決されており、その余裕からお礼を言ってもらえただけなのだ。
そこを勘違いすると自分は何かいいことをしたような気になり、アドバイスや説教が心地よく感じられ、口うるさいくそジジイ、くそババアになるだけなので注意が必要だ。僕が8割近くそういう人間になりかけていたからよくわかる。
口数が少なく、常に穏やかな人の方が口数の多い人間よりよっぽどの何かを持ってそうで怖いと思うように最近の僕はなってきた。僕もそういう物静かで穏やかな人になりたいし、必ずそうなると踏んでいる。
鳩胸、セムシとおさらばしよう
体は心を表す。
僕は鳩胸で背中が盛り上がっている。服を着ていれば胸板が厚い人に見えるが、骨格と肉づきの問題にしか過ぎず筋肉ではまったくない。
ほんとに鳩胸で背中が盛り上がってるんだ。たぶんあなたに見せたら、「うわっ、ほんとだ。(気持ちわるっ!)」って思うはずだよ。それくらい肋骨が出っ張って、背中が盛り上がってるんだ。どれだけ言っても伝わらない、言い足りないくらい肋骨が出っ張って、背中が盛り上がってるんだ。
で、体は心を表すってことだけど、僕の心の奥底の思いが身体的特徴となってあらわれているとするなら、僕は胸を張って、虚勢を張って生きてるってことと、何か心のうちに闇を背負っているってことになると思う。
この2つを振り返ると思い当たる節ばかりだから面白い。僕は実力に見合わない意地と見栄を張っているところがある。僕は人生を素直に楽しめない暗い闇を背負っている。
だとしたら意地と見栄、闇を捨ててしまえば僕の胸板は普通になってくれるのではないか。そうに違いない。
捨てよう。そうしよう。維持と見栄、闇は捨ててしまおう。僕の人生を邪魔してるのはこの3つだ。
それら3つを捨てて鳩胸とセムシとおさらばしよう。
こだわりの対象への強さが反比例する
自分のような欲まみれの悪人であっても阿弥陀仏は確実に救ってくださると信じる。
ならば僕以外の欲にまみれた悪人であっても阿弥陀仏は救ってしまわれる。たとえその悪人が僕を殴り殺した奴だとしても。僕の妻にひどいことをして殺したやつだとしても。その悪人が阿弥陀仏の教えを深く信じて念仏するなら阿弥陀仏の浄土に生まれ変わることができるのだ。
「あんなひどい奴は救われるわけがない」と自分を殺された恨みから僕がそう思うようであれば、僕は阿弥陀仏の、「誰でも必ず救うぞ」という約束を信じていないことになり、僕こそが救われない人になってしまう。
恨み、つらみ、妬みから阿弥陀仏の救いを捻じ曲げてとらえそうになる自分の弱い気持ちを乗り越えて、誰もが救われる可能性を秘めた人であるということを肚に落とし込めるようになることが僕の人生の課題だと思っている。
誰もが救われる可能性を持つ人たちだと思えるようになるとはどういうことか。それは自分のことを本当に凡人、悪人、ろくでなしだと認められたということ。そこを認められたなら他人が救われるのか、救われないのかなんて言える立場に自分がいないことがはっきりとわかる。
簡単な言葉で言えば謙虚になるということだ。
僕は謙虚になりたい。目立つ場所はバンドのステージの上だけでいい。人のことをとやかく言わず、人からもとやかく言われず、その場所に居ても目立たないが居ないといないで困るって人になりたい。
凡人になりたい。もはや凡人ではあるのだが、気持ちに色気がある。心のどこかで凡人ではないと思われたいという色気がある。世間の評価をまだ求めている。
万人が救われるべき人であり、仏性を持つ人であるという確信を持つために、まずはこの色気を捨てることだ。
最近、いい意味で服装にはこだわらなくなってきたので、少しは色気が抜けてきた気はするけど、外見への関心と反比例するように中身で勝負してやれって色気も出てくるからややこしい。
目指すか、東大!
勉強していると記憶には思い出すための手がかりがたくさん必要だということがよくわかる。
何かの言葉の定義を覚えようとしたとき、その言葉に関連する知識をたくさん持っていると記憶が楽だ。
例えば「動物園」という単語の意味を覚えようとしたとき、動物園を知っている人と知らない人、実際に行ったことがある人と行ったことがない人とでは記憶するためにかかる時間は違う。また「動物」や「園」という単語の意味やイメージを持たない人はとにかく「動物園、動物園、どうぶつえん」と連呼して覚えるしかなく、そうやって覚えてみたところで記憶が定着するのはなかなか難しい。つまり知識の多い人は記憶力もいいわけだ。
詰め込み教育はダメだ、考える力が育たないという意見はナンセンスだ。知識を詰め込むことで考える力は奪われない。知識と知識がリンクして新たな発想が生まれるのだから、リンクさせる知識が多い人間は発想も豊かになる。発想が豊かにならないのは詰め込のせいではなく、向き不向きの話だ。同じ力を持つ2人を比べるなら知識の多い方が何においても勝つ。
まずは遠慮なく知識を詰め込めばいい。脳ミソはパンクなんてしない。長期記憶というのは容量は無限で永久に消えないとされている。覚えるスピードに早い遅いはあったとしても誰でも時間をかけたら必ず覚えられる。
焦らず確実に自分のペースで学んでいけば僕のような凡人であってもある程度のところまではいける。そう信じている。
こつこつ勉強して70歳で東大合格なんてことになればかっこいいな。
アイムラッキィマン
今自分が置かれている環境は自分自身の思考、感情、行動などがもたらした結果であり、誰のせいでもないということ。
これがしっかり肚の中に落とし込めたら生きるのが楽しくなる。全てが自分の意思や努力によって変えられるからだ。
僕の性格でいくと、全てが自分の責任だと考えるとき、否定的な現象に目を向ける癖がある。アルバイトの身であるため年収が低い、それにより生活が不安定、服なんて大手衣料品メーカーのものしか買えない、欲しいギターの一本も買えないのは当たり前で、大好きなビールではなく安酒を少しずつしか飲めない。といったことにばかり焦点があたり、こういう情けない生活をしなくてはならないことの責任が自分にあるなんてとても納得できないとイライラするわけだ。
こういうことを書くと、「そんなことでイライラするなんて甘い」って言う奴が必ずいるけど、幸不幸の感じ方ってゆう超主観的なものに対して、感じ方を指示してくるお前が一番甘い生き方をしてるってことに早く気付けバカ野郎、人のことをとやかく言う前に自分の人生をちゃんと生きた方がよろしいんじゃありませんか、と言っておく。
とはいえ、44歳でアルバイト、年収が低くて不安定な生活にもかかわらず、とりあえず大した不満もなく過ごせているということは有難いことではある。
で、もう一歩踏み込んで考えると、僕はかなりの強運の持ち主だとも解釈できる。僕みたいな稼ぎが悪く社会的なポジションを持たない、信用も実績もない中年オヤジが普通に生活できているということひとつでかなりのラッキーマンだ。
ラッキーであることも僕の責任=実力であるなら、僕は僕の想像し得る世界で生きる中では強運の持ち主の一人ということになる。
この結果が自分の責任の範囲内だってことはよく理解できる。だって不動産の購入や博打で借金を背負ってるわけではない。衣食に不満があってもガマンはできるし、妻に八つ当たりをしたりしない。酒乱でもない。暴力もふるわない。そういう意味では僕は今の環境に見合った生き方をできているからだ。
僕としては自分らしく生きてきた結果がこんなことになっただけで、荒れてやろう、ひねくれて生きてやろうなんて思ったことは一度もなく、ただ自分に素直に生きてきただけ。だから苦しみもあるけど、それに見合うだけのラッキー=自分らしく生きられる環境もあるのだと思う。
どうせなら自分のことをもっともっとラッキーな奴だと認識して生きてやろう。僕はラッキーだ。
アイムラッキィマン
アイムラッキィマン
アイムラッキィマン
と真言のように唱えて生きよう。
で、僕はラッキーだ、とだけ考えていたらすぐ調子に乗って大失敗をしてしまうのは火を見るよりも明らかなので、コツコツできることを確実に積み上げていくという日々是地味日的な努力を忘れないようにしていけば、まぁまぁそこそこの50代を迎えられらのではないかと思っている。
幸せに近づいている実感
結果が出る、出ない。世間から評価される、されない。そんなの関係ない。
知識が増えることでいろんなものの見方が変わってくるのが楽しくて勉強する。弾けなかったフレーズが弾けるようになるのが刺激になるからギターを練習する。自分からどんなものが生まれてきて、どのくらい丁寧なモノづくりができるかを知りたいから曲を作る。
動機は自分の中にないと続かない。
動機を外に求めてきた結果、勉強にも真剣に取り組まず、大好きだったはずの音楽も中途半端に放り出した。
勉強も音楽も才能がない、努力がない、努力するセンスと才能がないという理由で簡単に放り投げてきた。
44歳になった今、僕には素人の宴会芸的特技以外は何も残っていない。
これが現実だ。棚ぼたを狙い続けた男の哀れな末路に近づきつつある今が現実だ。
心のどこかで、「こんなのほんとに望んでる生き方じゃない」と思いながらも、人並みにお金が欲しくて、人並み以上に思われたくて勤め人を続けてきた。世間に認められなかったからだ。
音楽はうまくいかなかったけど、これだけ大勢の人間がこなせている勤め人の世界なら僕の居場所もどこかにあるだろうと思って続けてきた。
結果、居場所は見つけられなかった。
このままいくなら惨めな死に方になる。誰も周りにいなくなる。「俺の若い頃はなぁ」と言える場所を確保するためのお金もない。
六畳一間でひとり布団にくるまって、奇声をあげたり、ギターを弾いたり、ギターの弦が切れてもお金がないから弦を交換できず腹が立って奇声をあげたり、電気とガスを止められても安酒だけは確保して、酔っ払ったときには「かっこよく死んでやる」と思ったり、その翌朝には二日酔いと自己嫌悪で憂鬱な一日を過ごして、夜にはまた酒を飲んで特権意識を肥大させ、よか朝、自己嫌悪、それを繰り返す。
耐え切れんぞ、こんな晩年。
僕にはこの人生を逆転させる起死回生の一手はない。もう遅い。
できることはただ一つ。やれることをやるだけだ。コツコツね。結果を求めず、評価も求めず、ただ自分が納得できるように。自分に勝ち続けることだけが目標だ。
それを楽しみにしようと思えるようになってから、変なプレッシャーもなくなった。凡人には凡人に見合った生き方がある。
柳宗悦が「南無阿弥陀仏」の書籍でいったように、凡人にしか作れないものがあるし、それは凡人が作ったとは思えない完成度の作品になる場合もあるのだ。
凡人を楽しめ。結果も評価もいらない。今この自分の凡才を認め凡人として生きる喜びを見つけつつある僕はほんとうの幸せに近づいているような気がする。
日々是地味日
最近、死への恐怖が薄らいできた。いつ死んでもいいとはおもえないまでも、これまでのように死について考えてどんよりした気持ちで過ごす時間は、ほぼ無くなった。
人はいつまでも成長できるということがわかってきたからだ。結果が出ようが出まいが毎日コツコツ地道に努力していくことの大切さ、楽しさを実感するようになってから感覚が変わってきた。
死ぬまで前を向いてればいい。今この瞬間からはじまる未来を信じて進めばいい。
今ここを生きる。過ぎた過去には執着せず、まだ来ぬ未来に不安を抱かない。そのために今ここを一心に生きる。
やるべきことを見極めてやる。実力以上を求めず、かといって怠けず、やるべきことを淡々とやる。
死を恐れたって必ず死ぬし、かといってまだ死んではいないのだから考えたって答えは出ない。答えが出ない割には時間だけが過ぎて、死には確実に近づいていく。無駄すぎる。
もったいない。モッタイナイ! オモテナシ!
死について考えるのとりあえず休憩だ。
これからは生きる。目標を目指して生きる。日々を地道に生きる。爆発する日のために地味に生きる。爆発する日が来なくてもいい。
あぁ、俺って大したこと書けないな。
ダメだな。
でもブログは書く。
仕事をする。風呂に入る。ご飯を食べる。勉強する。皿を洗う。洗濯をする。寝る。生きる。
生きる。生きる。生きろ! 死ぬな! 生きろ!