フェイクに気をつけて

ビールが好きだ。だが今はお酒を控えている。でもビールっぽい味が楽しみたい。そこでノンアルコールビールを飲む。酔わないから満足できないかと思いきやこれが十分満たされる。

ノンアルコールビールで喉の乾きが落ち着けばビールを欲する気持ちはおさまる。

酔わないのに喉の乾きが落ち着けばビールへの欲求はおさまるのはなぜだ。ビールは酔いたいから飲んでいたわけではないのか。何かがおかしい。

喉の渇きを潤すという欲求をビールで満たしてきた長年の習慣により、酔わないと喉の渇きは潤せないという思い込みが自分のなかに出来上がっていたのではないかと気づいた。

喉の渇きは本来は水分で癒される。僕は長年にわたり汗をかいたあとのビールを楽しんできた。これにより「喉の渇きを癒すためにはビールが最も適している」という条件づけができあがったと考えられる。

アルコールは脱水症状を起こす。だからまた渇きを癒すためにビールを飲む。これを繰り返せば必然的に酔う。

喉が渇いたからとビールを飲み、それによる脱水症状でまたビールを飲むことで酔いが深まるのが習慣となり最終的に僕の身体と脳みそには

 「喉の渇きは酔いによって癒される」

という誤った考え方がインプットされてしまっていた。

この誤った情報を

「喉の渇きは水分で癒やされる」

という当たり前の情報に書き換えてしまえば必要以上にお酒を欲しくなくなるということだ。

これに気づけたのはありがたい。嬉しい。

南無阿弥陀仏

自分がお酒を飲みたくなる理由をじっくり考えてみる。それは自分の生活習慣を振り返ることになる。つまり自分のこれまでの生き方を省みることになる。

お酒をひかえるために必要なのは根性などではなく正しく自分を知ることだった。

ここまできたらお酒をまったくやめてしまおうか、という気持ちにもなる。だってアルコールなんてものは生命維持のためには体内に取り込む必要がないものだから。

でもこの考え方でいくと、「じゃあ、水分は水だけ飲んでろ」ってことになる。

「水飲んで、玄米と味噌だけ食ってりゃいい」にもなる。「宇宙エネルギーを吸ってたら食べ物なんていらない」ってとこにも行ける。誰かと外食すると、「あれは食べられない。これは食べられない」と言う人になる。

僕はそうはなりたくない。体質的に飲めないわけではないのだから、みなで楽しむときは飲んでいたい。そのかわり飲めない人、飲まない人にお酒を無理強いしたりはしない。食べ物も同じだ。

哲学や道徳は自分を律するためにあるのであって、誰かの価値観を否定するためにあるのではない。その場の空気や和を乱した奴という理由で誰かを責めるのは和ではない。

 

肉体的な面での飲酒を控える考え方は、まとまってきた。あとは酔うことで現実から目を背けようとする精神的な逃避問題が残っている。ここをしっかりと考えておかないと、ちょっとした出来事で酔いに逃げはじめる可能性は十分残っている。

煩悩深い自分を甘くみたら痛い目みるからね。

結論

お酒を飲めば

心身ともに落ち着くって気持ちは

フェイクだ!