統制の所在

固形物を食べないデトックス2日目の昨日、妻が、「お腹が減ってイライラしない?」と聞いてきた。

イライラはしない。自分の意思ではじめたことだから。誰に強制されたわけでもなく自分ではじめたことでイライラするなら最初からやらなければいい。

禁煙のときはイライラしていた。「こんなに不機嫌になるくらいなら吸ってくれ」と妻は思ったらしい。4年くらい前の話だ。4年前の僕はとても身勝手だったんだと思う。

4年前に固形物を口にしないデトックスを実施していたらイライラしてただろう。横でご飯を食べる妻を見て、「気をつかわないやつだ」と思い不機嫌になっていたかもしれない。自分ではじめたことなのに。ケチな男だ。

固形物抜きデトックスの経験によって、自分ではじめたことは自分の責任だという感覚が初めて理解できた気がする。

これまでは何かあると他人のせいにしてきた。他人は僕に気をつかって当たり前だと思っていた。

うまくいかないのは誰かのせい。僕にはセンスも才能もあるのに誰からも相手にされないのは周囲の理解がないからだ。まったくクソにもならない、しょうもない世の中だと思って生きてきた。

そういう考え方がうまくいかない人生の根本原因なのに気づけない。

「この道を選んだのは僕自身だ」と言い切るまでにはまだまだ僕には勇気が足りない。情けないけど仕方ない。ただ、受身的な考え方ではあるが、「僕の周りで起こる気に入らないこと、納得できないこと、喜べないことはすべてプラスに転換できる可能性を秘めたもの」という考え方をした方が人生がうまくいくのではないかと考えられらるようにはなってきた。

すべてを人のせいにしてきた僕にとっては小さいけれど大きな心境の変化だ。

明日の晩御飯を食べることで、3日間の固形物抜きデトックスは終わる。それでトータル95時間、固形物を口にしないことになる。

今のところ体調はいたって普通だ。

ロックだぜ

3時間ほど在来線に乗った。

電車内で勉強した。集中できた。他にできることがない状況ってすごい。逃げ場がないから集中せざるを得ない。

どこかに出かけるとき、たくさんの荷物を持つ癖が僕にはある。出先で退屈しないよう、後悔しないよう、あれもこれもカバンに入れてしまう。

持って行くものを絞るというのは集中力を高めるためにも必要ではないか。

逃げ場がない状況を作って嫌でも勉強に向かう環境に自分を追い込んでいくのも大切だ。

そうなるとスマホは一番の曲者になる。スマホをいじりはじめると30分なんてあっという間に過ぎていく。大したものを得られず大切な時間だけ失う。

もっとハングリーになるべきだ。便利すぎる。物に意思が負けるなんて異常だ。

一日一食のおかげで満腹のときより空腹を感じているときのほうがパフォーマンスが向上することを知った。

満たされないときにこそ人間はその人の持っている本来の力が発揮されるのだ。

電車内という不自由な空間の方が勉強は進んだ。

そう考えてみると適度な制限が加えられたときこそ人間は自由になれるのかもしれない。

もし死がなかったら生の喜びはない。死という制約が生を輝かせてくれる。

ガチガチに縛られるのは困るけど、適度な縛りであるなら歓迎すべきだ。

不自由から自由を見出すのがロックだぜ!

 

忙しいのは幸せだ

ここ数日ブログを書く時間がなかった。忙しかった。これからも忙しい。

時間はどんどん過ぎていく。僕もだんだん老いていく。

このままだとあっという間に人生の終わりがやってきてしまう。

死ぬまでに死ぬ覚悟をしたいしそうできるだろうと漠然と考えていたけど、この速さで時間が過ぎるとしたら、死ぬ覚悟を決める前に死がやってきてしまいそうだ。

ただ忙しいのは幸せなことだ。忙しくしている間は死を考えなくてすむ。

スケープゴート・ババア

でしゃばりでよく喋る。仕切りたがりで注目を浴びたがる。仕事が雑でミスが多い。そのくせ自分は人一倍周囲に気を遣っていると自画自賛しているから人のアドバイスは受け入れない。

職場にいるめんどくさいおばさんのことだ。

こういうタイプは遠慮なく人のテリトリーに入り込んでくる。たずねてもいないのにアドバイスをしてきたり、余計なお節介をやいたり。そのくせ責任は取ろうとしない。

どうやって育ったらこんな50歳の人間ができあがるのか。よっぽど周囲の人間が優しかったのだろう。めんどくさいから避けて通していただけかもしれない。

自分を客観的に判断することなんてできないのはわかっている。きっちり内省なんてできないのは当然なのだけれども、それにしても、このおばさん、内省してなさ過ぎるにもほどがある。

いなくなればいいのにと最初は思っていた。このおばさんがいなくなれば職場がいい雰囲気になり、仕事もスムーズに運ぶようになるのにな、と考えていた。

しかし果たしてそうだろうか。このおばさんに僕の負の感情が一極集中することで、他者への怒りや不満が緩和されている可能性はないだろうかと考えてみた。

結果、「その可能性はある」という結論に達した。おばさんがいるおかげで、おばさん以外の人がしでかす何かしらのミスはほとんどは心に引っかかることなく流せている。

おばさんは僕にとってスケープゴートなのだ。

そう考えてみるとおばさんの存在がありがたいものに変わる。おばさんがいなくなってしまった方が心の安定が失われる可能性があるわけだ。

なるほど。人間関係はパズルのピースのようにうまくはまっている。近くで見るとそのパーツだけいびつに思えてしまうが、離れてみると綺麗にはまっているわけだ。

こう考えていくと広い視野が大事だってことがよくわかる。広い視野、大局観。しっかり手に入れたい。

ただなぁ、おばさん、仕事が雑だからお客様には迷惑をかけている。

それは我がボスに恥をかかせることにもなるので、そこだけはなんとかしてもらえないかねぇ、なっ、おい、ババア!

ありがとうスケープゴート・ババア!

 

 

ギターを弾く目的なんてない

何か目標や目的があるからギターを弾く。ずっとそう思ってきた。

目標や目的はなにかっていうのはずっとわからないままだった。

目的がわからないから時々でギターを弾くのをやめる時期があったり、また握ってみたり、センスがないのにうざりして、でもやめられなったりを繰り返してきた。

今はまた毎日ギターを触っている。

僕は何か目的があってギターを弾いてるわけじゃない。それがこの1年くらいでわかった。

何かを達成するための手段としてギターがあるわけじゃなく、僕の生活のなかに普通にギターがある。

 やめるとかやめないとか。センスがないからやらないとか。ギターとはそんな付き合い方じゃない。

ギターを弾くことで人に認められたいというおもいはある。人前で披露はする。

それが人に受け入れられなかったらやめるって考え方がこれまでの考え方だった。

人から認められなくてもいい。好きだからやる。聞きたくない人の耳に無理やり音を突っ込むようなやり方さえしなければ、人の反応は気にせずにずっとギターを弾き続けていく。

それでいいんだと、四十半ばで気づいた。

すこーーーーーしだけ、日々是好日ってことの意味がわかったかなと思う。

口閉じろ/一日一食

一日一食が普通の感覚になってきた。

次の食事まで18時間のインターバルは普通に感じられる。12時間だと早い。12時間くらいで食べてしまうと、「食べ過ぎだ」と体が訴えてくる感覚がある。

とはいえ以前も書いたように原理主義者にはなりたくないから、人と食事を一緒にするときは2食目だろうが食べる。ここが頑になるとただの厄介なオヤジとなるだけだ。

ただ2食たべた次の日はかなりの空腹感がやってくる。胃が大きくなっているのだろう。インターバル12時間くらいになると食べたくて仕方なくなる。

今日は夕方から場末のショッピングモールにあるフードコートで勉強をした。空いており四人がけの机を使っても罪悪感はない。騒がしいのは仕方ない。ただ近所のマックも似たようなものなので机が広く使えるだけフードコートの方がましか。

で、フードコートなので周囲はみんなガンガン食べている。ラーメン、タコ焼き、うどん、お弁当などなど。アルコールを召し上がっている方々もいる。美味しそうな香りが充満しているわけだ。しかしそこまで苦痛は感じない。逆に集中力が出るくらいだ。一日一食は集中力を高める効果もあると僕個人は考えている。

食べ物の香りより厄介なのは食べ物を咀嚼する音だ。近所のマックでは大学生っぽい男性の5人に2人くらいの割合で、「くちゃくちゃくちゃくちゃ」いわせながら食べる奴があらわれる。席も狭いので音も近い。あの音には抗えない。集中できない。

その点フードコートは広いから汚い咀嚼野郎が現れてもそれほど気にならないかもしれない。フードコートでの勉強は今日が初めてだったから確証はないけどね。

口閉じて食べられない奴は下品だ。低能だ。育ちが悪い。馬鹿だ。阿保だ。間抜けだ。

とはいえおそらく某有名国立大学の学生たちだけどね。

くちゃくちゃくちゃくちゃいわせるやつにも負ける僕の人生っていったいなんだよ。

マザコンのくせに

野際洋子さんが亡くなった。3年前から闘病生活をされており81歳だった。ご冥福をお祈りします。

僕の母は今年で75歳だ。目も耳も、足腰も、頭もしっかりしている。だから母の死を生々しく考えたことはなかった。

僕にとって野際洋子さんはドラマ「トリック」における仲間由紀恵の母親役のイメージが強いのだが、ドラマの「トリック」を初めて見てから16年が過ぎてることを思い、あと16年先まで母が元気でいてくれるのかどうかを考えさせられた。

僕は母に何も恩返しをしていない。未だに助けてもらってばかりいる。

自分の時間を犠牲にして僕を育ててくれた。何があっても味方だった。いつも家族のことを第一に考えてくれた。やさしくて、明るい母。

母がいたからこそ今の僕があるのに、大きくなったら自分の好きなように生きたいと実家から遠く離れた土地で自分のことだけを考えて生活している。そんな僕っていったいどうなんだろう。

母は自分の面倒は見なくてもいいと僕ら兄妹には言う。

でも育ててもらったあとは知らんぷりでいいのか。

僕ら夫婦には子どもはいない。将来に繋がる何かを生み出すわけでもなく、過去からの連続も断ち切ろうとしている僕はいったい何のために生きているのだろうか。

このままだと後悔するのは確実だ。

でも具体的に何をしたらいいのかがわからない。どうしたら親孝行ができるのだろう。

親にとっては子どもに元気でいてもらえるのが一番なんて気休めでは納得できない。ありがたいことに元気だけはあるから、それプラスなにかさせてもらわないと。

何をするのか。しっかり考えて行動にうつさないと、ほんとに間に合わないことになる。