死にたくない、は生きたい
物心ついたからずっと、死の恐怖を乗り越えることばかり考えてきた。
自問自答を繰り返してきた40年間だ。
こんな毎日は出家してるのと変わりない。こんなことならとっとと出家してればよかった。
いつかかならず死ぬという恐怖は怒りに変わる。
全ての感情の土台に怒りがあった。
いつかかならず死ぬ。限られた人生の限られた時間を不快にさせる人たち。簡単に言えば僕は僕の思い通りにことを運ばせない人たち対してはどんな些細なことでも怒ってきた。
いつでも、どこでも怒ってきた。
40年間怒り続けてきた。
そして、やっと。
やっとわかってきた。
怒ると自分が損をする。
怒りから良いものは生まれない。
怒っても根本的な解決にはならない。
怒っても自分の思い通りにはならない。
怒ったら味方がいなくなる。
弱い奴ほどすぐ怒る。
すぐ怒る奴はかっこわるい。
これらのことが44歳にしてやっと骨身にしみてわかってきた。
スキンヘッドにしてみたり、ひげを生やしてみたり。
本当は弱っちい人間だから外見でそれを隠そうとしてきた。
売れてるものはかっこ悪い。
多数派はかっこ悪い。
ヘタレの僕が考えそうなことだ。
普通のルックスなのに存在感のある奴が一番かっこいい。
売れてるものにはしょうもないものも多いけど、いいものは確実にある。
少数派は多様性という意味で必要だけど、多数派がいなくなったら人類は滅びてしまう。
どうすれば怒りと疎遠になれるのか。
死への恐怖を乗り越えることだ。
死への恐怖を乗り越えるためには生きることだ。
死にたくないというのは、生きたいという思いの裏返し。
いきる。いかる。一字違い。
身内の幸せを願う。それでいい
ほんとに悩んでいるときはあまり言葉が出ない。
自分が発する言葉の重さがわかる。それを聞かされる相手にかかる負担も想像できる。
重い話を聞かされた相手が被る迷惑を考えると言葉を遠慮してしまう。
もうひとつは聞かされる相手は僕の悩みになんて興味ないだろうから適当に流されて蔑ろにされるのはたまったもんじゃないという思い。
自分にとって一大事であっても、他人にとってはどうでもいいこと。
そりゃ、そうだ、
今、この瞬間でも飢えて死ぬ人、戦争で死ぬ人、心身を不当に傷つけられている人が世界中にはたくさんいる。
でも僕はその人たちのことについて悩みはしない。
他人の痛みを自分の痛みとして感じてしまったら、とてもじゃないけど、まともに生きていけない。
痛み、憎しみ、怒り、嫉妬、不安、孤独、焦りといった他人の感じる負の感情が自分の感情に流れ込んできたら発狂してしまう。
他人は他人だ。
他人は他人と割り切れるから、自分を自分として生きていける。
僕が親身になれるのはごくわずかな人に対してだけだ。
でも世界平和も祈ることはできる。
僕が愛するごくわずかな人たちのためなら。
ごくわずかな人への思いから、世界の人へ思いがつながっていく考え方が仏教にはある。
因縁だ。
僕が支払った千円はどこにいって、誰の役に立つかはわからない。姿、形を変えてその千円から派生したものはいろんなところを駆け巡る。
僕が支払った千円も同じようにたくさんの人の手を経てきた千円だ。
自分だけからはじまり、自分だけで終わるものなんてない。
因縁はすべての人をつなぐ。
ひとりの幸せの先には、たくさんの人の幸せがある。
だから堂々と自分の、身内の、親しい人の幸せを願い、そのために動けばいい。
それが大勢の人の幸せにつながることを信じて。
凡人なんだからどうせ大したことなんてできない。
気負わずやればいい。
生きている間に阿弥陀仏を信じる気持ちを不動のものにして、死んだら極楽に往生して、極楽で阿弥陀仏の指導のもとしばらく修行して、大勢の人を救える菩薩となってこの世に出てきたとき。
そのときこそ親類縁者だけでなく、あらゆる人を救うことができる。
そのときを楽しみにして、今はできるだけ他人に負担をかけないことを心がけよう。
南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)
念仏称える健さん
出しゃばらない。これは大切だ。
44歳。社会的な地位はないにもかかわらず経験からくるプライドだけは強くなっている。
なんにしてもなにかしらの意見を言えるだけの知識は身につけた。そのためどんな場所でもなにかしらの意見は言いたくなる。
「そんなことはわかっている」
「そんなことも知らないのか」
「俺が教えてやろう」
そんな気持ちが言葉に乗る。態度にでる。
そして周りから鬱陶しがられ居場所がなくなる。
この歳になって社会的な地位がないことに感謝すべきだ。
もし地位があり、多少は偉そうにしても許され、居場所が確保される場を与えられていたら、僕は単純に嫌なやつになっていたと思う。
地位なしでよかった。ありがとう。少なくとも今より奢らなくてすむ。
地位なんかより、いつでも死ねる覚悟が欲しい。
僕が欲しいのは必ず菩薩となることが約束された不退転の位だ。
如来と等しい位である正定聚(しょうじょうじゅ)に入りたい。
等しいとはゆくゆく等しくなる、如来になることが約束されているという意味だ。
阿弥陀仏を信仰しない人にとってはどうでもいいことかもしれない。そんな人はごめんね。
簡単に言えば人格者になるということ。性格の良い人。怒らない人。決めつけない人。与えられる人。許す人。救う人。導く人。
今回の人生でそのような人間になるのは無理なので順序がある。
まず阿弥陀仏の救いを深く信じて死んだのち極楽に生まれ変わる。そこで阿弥陀仏からご指導いただき自分が菩薩となり仏となる。そして改めてこの世に生まれて来て多くの人を救う、という流れだ。
まさに大乗仏教。
つまりうまくいけば僕はゆくゆく菩薩となれるわけだ。
そのためには、自分は悪人であると自覚する。
時代や状況が変われば窃盗、強姦、殺人も犯してしまいかねない欲望まみれの人間であると知り、その罪深さに打ちのめされる。
そしてそんな悪人を救ってくださるのは阿弥陀仏しかいないと深く信じて疑わない。これらの条件が必要となる。
この条件がそろった上で、「南無阿弥陀仏」と称えるならば必ず極楽に生まれ変われる。
自分が極悪人だと自覚できるなら、出しゃばる気になんてなれない。
若気の至りで人を殺め15年の刑期を終えてシャバに出た男が人目につかぬよう、過去の罪を背負い労働に励む寡黙な日々を送る。
女の子から言い寄られても、「自分なんて、お嬢さんに好いてもらえるような男じゃありませんから」とお断りする。
イメージとしては、念仏を称える刑務所帰りの高倉健さんだ。
そういう男に僕はなりたいのだと思う。
やっと自分に追いついた
この1ヶ月で急激に白髪が増えてきた、
僕は44歳だ。白髪の多い同級生は普通にいる。
僕には目に入る白髪は一本しかなかった。それがここにきて増えている。
老眼も進んだ。文庫の小説が読みづらい。拡大鏡をメガネの上からかざすとちょうとよい。しかしそれでも疲れるので長時間の集中は難しい。
老いは深刻な問題だ。老いの先には死がある。髪の毛を染めたり、化粧や服装を変えてみたり、整形したりして、老いた自分を意識しないでおこうとする。
僕は中学生くらいから老け顔だった。雰囲気がおっさんだった。
ツムジの流れに沿った髪型をすると天然パーマの髪質と相まって六四分けのおっさんヘアーになる。そこに老け顔がマッチする。
僕は髪型を変えることで自分がかっこよくなれるという意識を持ったことが人生で一度もない。今は自分で髪を切る。少々おかしくなってもボウズにしてしまえばいいと思っているから失敗も怖くない。
それもこれも老け顔、天然パーマのおかげだ。
白髪が増え、肌のハリもなくなってきた今が僕という素材を活かすには最高の時間なのだと思う。
外見と年齢がマッチしてきたわけだ。
今思えば僕は若い頃から早く中年になりたかったのではいか。
幼い頃から憧れて続けている親鸞聖人、法然聖人は中年もしくは初老の人のイメージだった。
僕は幼い頃から中年、初老の人に憧れてきたわけだ。
憧れていた中年。
ここに来て一致する外見と年齢。
僕は僕の人生の中でもっともバランスの良いときを迎えているのかもしれない。
服装なんて大して気にならない。
髪型も寝ぐせがなけりゃいいってくらいのこだわりしかない。
外ヅラなんてどうでもよくなってくる。
数珠を片手に念仏を称える数をかぞえながら街を歩きたい。
僕の心が平安であるためなら他人の目からどう見られようが構わない。
だから数珠を買いに行こうと考えている。
浄土真宗の数珠は地味でカッコ悪いから、浄土宗の数珠にしようかなと思っている。余談だ。
そんなのだけど、出るとこに出たらビシッときめる。
立ち居振る舞いは飾り気のない自然さと優雅さを備えており、釈尊の説法のように穏やかながら重みのある口調で話す。
釈尊の説法は聞いたことがないので勝手なイメージだが。まあそんなふうな中年になりたい。
地位もお金もないから。自分だけが商品だ。
憧れていた中年、外見と中身が一致した中年。
中年になれた今、僕の才能を開花させる時がついにきた。
ナチュラルーボーン・中年
ホーン・トゥ・ビー・中年
ボーン・イン・ザ・CNN(chunen)
地味に目立たず、くそほどクレイジーに生きてやる。
大切な人の気持ちもわからない
人の気持ちを理解しようと努力すればするほど、それが難しいことであると知らされる。
だから人の気持ちなんて理解できなくて当然で、理解できなくても問題なしと考えることにする。
人の気持ちをわかった気になることで起こる問題は多い。
人にアドバイスをする人がいい例だ。
あなたは幸せだ。そこに気づけていないのはあなただけだ。もっと感謝しないとダメだ。死ぬ気でやればなんでもできる。甘えているだけだ。本気になっていない。etc。
こんなことを言ってくる人は多い。
こういう人たちは僕のいったい何をわかって、こんなことを言うのか。
僕が幸せじゃないと感じている以上、幸せじゃない。
客観的事実を知りたいわけじゃない。
主観的現実で僕は生きているのだ。
逆に周りからどんなに不幸だと言われようが、僕が幸せを感じているなら幸せだ。
あなたの基準を押し付けてくるな。
デリカシーのない奴らだとしか思えない。
アドバイスを受けるべきはあなた自身だ。自分が幸せなら人にあれこれ言おうなんて気持ちは起こらない。人を利用してさみしさを埋めないでもらいたい。迷惑だから。
僕はこんなふうに感じる。
そうだったら僕も他人に対してわかったようなふりをしてはいけない。決めつけてはダメだ。アドバイスなんてしなくていい。
あなたのことはわからない。わからないを前提としてその上でできるだけ良い関係を築いていきたい。それでいい。
突っ込んでジャンル分け
あることで怒った。
改めて思う。怒りは冷静さを失わせる。
怒りに焦点を合わせると怒りと一体となってしまう。その瞬間は怒りに全てが乗っ取られる。
怒らないのは凡人には無理だ。
凡人にできるのは1つ。怒りのできるだけ早い沈静化だ。
そのためにはどうするか。
自分で自分に突っ込むのが一番いい。「あっ、また怒ってる。怒ってるよ」と自分に突っ込みをいれる。
すると怒りと自分の間に隙間が生まれる。少しだけ客観的になれる。そのぶんだけ怒りが静まる。
怒ってから自分に突っ込みを入れるまでの時間をどこまで短くできるのかが勝負だ。
究極は怒ると同時に突っ込めるところまでいきたい。
怒りと突っ込みとの時間差を極限まで縮められるなら、それはもはや怒っていないのに等しい。
単純な怒りなら突っ込みひとつですぐに消え去る。
反面、突っ込んでも簡単には消えないモヤモヤ残りつづける怒りがある。
そんな怒りには突っ込むとともに、その奥にどんな感情が隠されているかを探るのだ。
怒りの感情のジャンル分けと考えるとわかりやすい。
僕が頻繁に怒りを感じる場面で例えると、3人が横並びになって道を塞いで歩く若者がいるために進路を妨害されて腹が立ったとしたら、この怒りの原因は何かを考えてみる。
それは「公の場を我がもの顔で使用し、周囲に気を使わないことへの怒り」かもしれない。
自分が進みたいのに進めない。「自分の行動を邪魔されたことへの怒り」かもしれない。
後ろから歩いている僕に気づかない。「僕を無視されたことへの怒り」かもしれない。
こうやって原因を考えてみると、そんなに大したことで怒ってるわけではないとわかる。
のちに冷静になって考えてみると怒るほどのことでもないことで怒っている場合がほとんどだ。
怒りのジャンル分けをする目的。それはこんなことで怒るなんて僕はどれだけバカなんだという後悔を後々ではなくその場ですぐすることにある。
腹が立ったら突っ込む
まず、これ。
一日一食が普通になってきた
一日一食にしてから100日くらいが過ぎた。
お昼にフルーツを食べたり、コーヒー、紅茶、お茶は飲んだりはするが、炭水化物や肉、野菜を食べるのは基本的に夜だけだ。
もう完全に根付いた。
4日ほど前、昼と晩の2食になることがあった。お腹が減っていないのに食べている感じで辛かった。
いつも食後20時間くらい経つと強い空腹感がやってくる。その空腹感に2時間くらい耐えてからご飯の時間になる。
この空腹に耐える感覚を味わうことが一日一食にするまではなかったわけだ。
一日二食、三食時代も腹が減ったとは思ってはいたけどしっかり朝なり昼を食べた上で感じる空腹感っていったいなんだったのか。今となっては不思議だ。
食べた方がお腹が減るというのがある。
朝食をしっかり食べてしまうと胃に隙間ができるたびに空腹を感じているのではないかというくらいその日一日は頻繁にお腹が減る。
これは一日一食を実践する仲間の共通した感想だ。
一日一食が万人とって良いものかどうかわからない。だから友だちにも勧めたりしない。ただ僕にとってはあっていようだ。
5年くらい前に買ったジーパンがここ3年ほどはけなくなっていた。購入時にくらべてかなり太ったからだ。
そのジーパンは買った当時もワンサイズ小さめのものだったので、そもそもきつかった。
今は楽に入る。5年前よりも身体はスリムになったわけだ。
この100日で体重5kg減はキープしている。
痩せることが目的ではない。
ただ太ると身体が重く、気持ちも前向きにならないことを思えば痩せるということを一日一食のひとつのメリットとするのは間違っていない。
排便もほぼ朝一である。快適だ。
今のところ一日一食をやめる理由はどこにもないのでとりあえず無期限で続けるつもりでいる。