涙を流す偽善を卒業

特攻隊の遺書を読むたびに泣いていた。原爆にまつわる話を聞いたり読んだり、映像を見るたびに泣いていた。

無念だっただろう、もっと生きたかっただろう。

戦争で亡くなった方々の犠牲の上に成り立つ平和を享受する僕たちがこんな腑抜けた様で申し訳ありません。

などと思いながら涙を流していた。

ここ一年くらい、そういうものに触れても泣かなくなった。涙を流していたときとは違うふたつの感情がわいてくる。

泣いたってはじまらない。先人たちへのお詫びにもならない。今この瞬間を無我夢中になって生きることこそが先人たちへのお詫びと感謝につながるのだ、というものがひとつ。

亡くなった人たちは無念だっだろう、生きたかっただろう。アメリカのクソ野郎、たくさんの人たちの可能性を奪いやがった野蛮人ども。などと思うのは、それこそ亡くなった方々を冒涜していると思うようになったのがふたつ。

涙を流していた僕は戦争で亡くなった方々の人生の意味を勝手に決めつけていた。

生きている僕の方が、死んだあなたたちよりラッキーだと思いながら、生きる上での様々な不満をアメリカのクソ野郎という感情に転換させたに過ぎない怒りを先人に変わっての怒りという大義名分によって正当化していただけだ。

しかもその感情にのせて涙が流すなら、自分は純粋な人間だとも思えるし、涙を流すことで気持ちも楽になる。

涙を流しながら何十万人もの無念を背負える心優しく、心強い、正義を愛するいい人という設定に浸っていたのだ。

これこそ戦没者に対する冒涜じゃないか。クソ野郎は僕だった。

ここからは宗教的な話になる。

戦没者の中で今でも無念の思い、痛みや苦しみを抱えている方々がおられたとして、その方々の救いを願うのであれば、僕が極楽往生し悟りを得ることが先決だ。その後なら慰めや一時しのぎではない阿弥陀仏の慈悲によって多くの戦没者を本当の意味で救うことができるのだ。これを還相回向という。

戦争で亡くなることによって悟りに至った方々もおられるかもしれない。その時の痛みや悲しみを抱えたことにより次の人生をよりよく生きる方々もいるかもしれない。人の人生は全て尊いのだ。人の人生の意味を勝手に決めつけられるほどの智慧を僕は持っていない。

涙を流して善人ぶることはもうできなくなった。自分の悪と向かい合ってそこから学ぶべきことがたくさんある。まずはそこからだ。

その先に還相回向による利他の行があることを忘れず、というかそここそを目標として、無我夢中に生きよう。