幸せに近づいている実感

結果が出る、出ない。世間から評価される、されない。そんなの関係ない。

知識が増えることでいろんなものの見方が変わってくるのが楽しくて勉強する。弾けなかったフレーズが弾けるようになるのが刺激になるからギターを練習する。自分からどんなものが生まれてきて、どのくらい丁寧なモノづくりができるかを知りたいから曲を作る。

動機は自分の中にないと続かない。

動機を外に求めてきた結果、勉強にも真剣に取り組まず、大好きだったはずの音楽も中途半端に放り出した。

勉強も音楽も才能がない、努力がない、努力するセンスと才能がないという理由で簡単に放り投げてきた。

 

44歳になった今、僕には素人の宴会芸的特技以外は何も残っていない。

これが現実だ。棚ぼたを狙い続けた男の哀れな末路に近づきつつある今が現実だ。

心のどこかで、「こんなのほんとに望んでる生き方じゃない」と思いながらも、人並みにお金が欲しくて、人並み以上に思われたくて勤め人を続けてきた。世間に認められなかったからだ。

音楽はうまくいかなかったけど、これだけ大勢の人間がこなせている勤め人の世界なら僕の居場所もどこかにあるだろうと思って続けてきた。

結果、居場所は見つけられなかった。

このままいくなら惨めな死に方になる。誰も周りにいなくなる。「俺の若い頃はなぁ」と言える場所を確保するためのお金もない。

六畳一間でひとり布団にくるまって、奇声をあげたり、ギターを弾いたり、ギターの弦が切れてもお金がないから弦を交換できず腹が立って奇声をあげたり、電気とガスを止められても安酒だけは確保して、酔っ払ったときには「かっこよく死んでやる」と思ったり、その翌朝には二日酔いと自己嫌悪で憂鬱な一日を過ごして、夜にはまた酒を飲んで特権意識を肥大させ、よか朝、自己嫌悪、それを繰り返す。

 

耐え切れんぞ、こんな晩年。

僕にはこの人生を逆転させる起死回生の一手はない。もう遅い。

できることはただ一つ。やれることをやるだけだ。コツコツね。結果を求めず、評価も求めず、ただ自分が納得できるように。自分に勝ち続けることだけが目標だ。

それを楽しみにしようと思えるようになってから、変なプレッシャーもなくなった。凡人には凡人に見合った生き方がある。

柳宗悦が「南無阿弥陀仏」の書籍でいったように、凡人にしか作れないものがあるし、それは凡人が作ったとは思えない完成度の作品になる場合もあるのだ。

凡人を楽しめ。結果も評価もいらない。今この自分の凡才を認め凡人として生きる喜びを見つけつつある僕はほんとうの幸せに近づいているような気がする。