大切な人の気持ちもわからない

人の気持ちを理解しようと努力すればするほど、それが難しいことであると知らされる。

だから人の気持ちなんて理解できなくて当然で、理解できなくても問題なしと考えることにする。

人の気持ちをわかった気になることで起こる問題は多い。

人にアドバイスをする人がいい例だ。

あなたは幸せだ。そこに気づけていないのはあなただけだ。もっと感謝しないとダメだ。死ぬ気でやればなんでもできる。甘えているだけだ。本気になっていない。etc。

こんなことを言ってくる人は多い。

こういう人たちは僕のいったい何をわかって、こんなことを言うのか。

僕が幸せじゃないと感じている以上、幸せじゃない。

客観的事実を知りたいわけじゃない。

主観的現実で僕は生きているのだ。

逆に周りからどんなに不幸だと言われようが、僕が幸せを感じているなら幸せだ。

あなたの基準を押し付けてくるな。

デリカシーのない奴らだとしか思えない。

アドバイスを受けるべきはあなた自身だ。自分が幸せなら人にあれこれ言おうなんて気持ちは起こらない。人を利用してさみしさを埋めないでもらいたい。迷惑だから。

僕はこんなふうに感じる。

そうだったら僕も他人に対してわかったようなふりをしてはいけない。決めつけてはダメだ。アドバイスなんてしなくていい。

あなたのことはわからない。わからないを前提としてその上でできるだけ良い関係を築いていきたい。それでいい。

 

突っ込んでジャンル分け

あることで怒った。

改めて思う。怒りは冷静さを失わせる。

怒りに焦点を合わせると怒りと一体となってしまう。その瞬間は怒りに全てが乗っ取られる。

怒らないのは凡人には無理だ。

凡人にできるのは1つ。怒りのできるだけ早い沈静化だ。

そのためにはどうするか。

自分で自分に突っ込むのが一番いい。「あっ、また怒ってる。怒ってるよ」と自分に突っ込みをいれる。

すると怒りと自分の間に隙間が生まれる。少しだけ客観的になれる。そのぶんだけ怒りが静まる。

怒ってから自分に突っ込みを入れるまでの時間をどこまで短くできるのかが勝負だ。

究極は怒ると同時に突っ込めるところまでいきたい。

怒りと突っ込みとの時間差を極限まで縮められるなら、それはもはや怒っていないのに等しい。

単純な怒りなら突っ込みひとつですぐに消え去る。

反面、突っ込んでも簡単には消えないモヤモヤ残りつづける怒りがある。

そんな怒りには突っ込むとともに、その奥にどんな感情が隠されているかを探るのだ。

怒りの感情のジャンル分けと考えるとわかりやすい。

僕が頻繁に怒りを感じる場面で例えると、3人が横並びになって道を塞いで歩く若者がいるために進路を妨害されて腹が立ったとしたら、この怒りの原因は何かを考えてみる。

それは「公の場を我がもの顔で使用し、周囲に気を使わないことへの怒り」かもしれない。

自分が進みたいのに進めない。「自分の行動を邪魔されたことへの怒り」かもしれない。

後ろから歩いている僕に気づかない。「僕を無視されたことへの怒り」かもしれない。

こうやって原因を考えてみると、そんなに大したことで怒ってるわけではないとわかる。

のちに冷静になって考えてみると怒るほどのことでもないことで怒っている場合がほとんどだ。

怒りのジャンル分けをする目的。それはこんなことで怒るなんて僕はどれだけバカなんだという後悔を後々ではなくその場ですぐすることにある。

 

腹が立ったら突っ込む

 

まず、これ。

 

一日一食が普通になってきた

一日一食にしてから100日くらいが過ぎた。

お昼にフルーツを食べたり、コーヒー、紅茶、お茶は飲んだりはするが、炭水化物や肉、野菜を食べるのは基本的に夜だけだ。

もう完全に根付いた。

4日ほど前、昼と晩の2食になることがあった。お腹が減っていないのに食べている感じで辛かった。

いつも食後20時間くらい経つと強い空腹感がやってくる。その空腹感に2時間くらい耐えてからご飯の時間になる。

この空腹に耐える感覚を味わうことが一日一食にするまではなかったわけだ。

一日二食、三食時代も腹が減ったとは思ってはいたけどしっかり朝なり昼を食べた上で感じる空腹感っていったいなんだったのか。今となっては不思議だ。

食べた方がお腹が減るというのがある。

朝食をしっかり食べてしまうと胃に隙間ができるたびに空腹を感じているのではないかというくらいその日一日は頻繁にお腹が減る。

これは一日一食を実践する仲間の共通した感想だ。

一日一食が万人とって良いものかどうかわからない。だから友だちにも勧めたりしない。ただ僕にとってはあっていようだ。

5年くらい前に買ったジーパンがここ3年ほどはけなくなっていた。購入時にくらべてかなり太ったからだ。

そのジーパンは買った当時もワンサイズ小さめのものだったので、そもそもきつかった。

今は楽に入る。5年前よりも身体はスリムになったわけだ。

この100日で体重5kg減はキープしている。

痩せることが目的ではない。

ただ太ると身体が重く、気持ちも前向きにならないことを思えば痩せるということを一日一食のひとつのメリットとするのは間違っていない。

排便もほぼ朝一である。快適だ。

今のところ一日一食をやめる理由はどこにもないのでとりあえず無期限で続けるつもりでいる。

逃げずに、いること

今、ここに僕がいる。それだけで他者との十分なつながりになるときがある。

冬の朝4時は真っ暗だ。幼い頃その時間に目がさめると怖かった。誰もいない。この世に自分一人だけのような気がして。そんなとき新聞配達のバイクの音が聞こえると安心できた。人がいると思えた。

思春期には深夜のラジオ放送が怖さを忘れさせてくれた。地方だったので深夜2時にラジオ放送が終わる日曜日はその後がたまらなくさみしかった。

人がそこにいる。ただそれだけで大げさに言うと救われるのだ。

励まし、慰め、詫び、お礼。言葉が嬉しい時もある。

ただ言葉は信用できないときもある。

本心を隠すために饒舌になることは多い。相手の存在や、共にいる場に耐えられないとき、言葉に逃げてしまう。

黙るためには待たなくてはならない。相手を信じていなければ待てない。

僕は未熟なので大勢の人を信じるなんてできない。わずかな身近な人しか信じられない。しかもまだまだ条件付きの信用だ。

条件とは単純で、僕にとって良い人かどうかというものだ。

決めつけも、条件もできるだけ減らしていきたい。

今、ここにいて、やるべきことをやれる自分でいたい。今、ここにいるだけで、誰かを安らかにしてあげられる自分になりたい。

人から認められることが人とつながることだとばかり思っていた。

僕が誰かを認め、黙って見守るという繋がり方もあるなんて考えてもみなかった。

世間から能力を高く評価されて、安定した地位と収入を手に入れること。僕が望んでいたのはこれなんだと思う。

そのために必要な僕の能力はなにかってことを真剣に考えることなく結果ばかりを欲しがっていた。

歳を重ねるごとに冷静にならざるを得なくなる。自分は大した能力を持たない人間なんだと知る。

 未熟な人間が自己主張してまわっても迷惑なだけだ。

だったら黙ってひとりで野菜でも育ててそれを誰かの元に届けたりする方がよっぽど人様の役に立つ。

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善も悪もひっくるめた存在がひとりの尊い人間なのであると知れ。

尊いことが前提だ。善だから尊い、悪だから尊くないなんてことではない。条件なしに尊い

だから、黙って、今ここに、逃げずにいろ。

誰かの隣に逃げずにいろ。

南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)

誠意があるならよし

〜気持ちの変化 メモとして05〜

苦手な人は苦手でいい。嫌いな人は嫌いでいい。

苦手意識をなくそうとしたり、できることなら好きになろうとするから苦しくなる。

無駄な努力とは言わないまでも、好きになりたいって気持ちが本音ではない限り疲れる。すると益々苦手になり、結果としてもっと嫌いになる。

「あぁ、僕ってほんとにこの人が苦手なんだなぁ」

「あぁ、僕は間違いなくこの人が大嫌いだ」

自分の本音を心で言葉にして味わえばいい。そこにあれこれ善悪の判断を加えない。自分の気持ちに抵抗せず受け入れて味わう。

ありのままを受け入れることの大切さ。

苦手は苦手。嫌いは嫌い。怖いは怖い。好きは好き。そのままに受け入れる。

その気持ちを、またはその気持ちを抱かせる相手をどうにかしようとするから疲れる。

まずは受け入れてしまう。

「あいつ、ぶっ殺してやる」と思ったなら、その気持ちに罪悪感を抱いたり、否定したりせずに受け入れる。「僕はあいつをぶっ殺したいと思うくらい憎んでいるんだな」と気づきのひとつにする。

そうしてみると、とことんまで相手を恨むことなんて、そうそうできるもんじゃないってことがわかってくる。

ぶっ殺してやると思っても実際にぶっ殺しはしないし、ぶっ殺してやるって気持ちになんて実はなかなかなれない。

冷静になって考えたら、「僕の見えないところに行って欲しい」くらいの気持ちでしかない場合がほとんどだ。

抵抗するから争いがはじまる。他人に対してもそう。そして何より自分の気持ちに対してもそう。

やっぱり僕は短気だ。身勝手だ。悪人だ。凡人だ。煩悩まみれだ。とても自分の力で菩薩になんてなれないな。

そう思ってたらいい。

菩薩になんてなれるわけないだろ。

東大、京大に行ける脳みそを持たないのに、東大、京大に行きたいと思うところに苦しみが生まれる。

東大、京大には行けないだろうな。でも、そこを目指して勉強するのは無駄じゃないよな。だから自分なりに勉強は続けよう。くらいの気持ちで物事にあたるのがいい。

諦めるわけじゃない。執着しない。

執着しないためにはありのままの自分を認めることと、自分を変えていく、成長させていく過程そのものを楽しむこと。

ありのままの自分を認めず、結果のみを重視するところに執着が生まれる。

今、ここ、だ。

今、ここで、できることを手抜きせずにやっているかどうか、だ。

今、ここで、できることに対して誠意を持って取り組んでいるなら、それでよし。自分を褒めてやれ。

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南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)

わからなくていい

〜気持ちの変化 メモとして04〜

ほんとにかわりはじめた。視点が変わってきた。

他人と自分はまったく違う生き物だということ。

通りすがりのおっさんの気持ちなんてわかるはずがないということ。

他人と全てをわかり合うなんて不可能だ。少しのことをわかり合うことだって難しいのに。

誰彼かまわず感情的になって僕はどうしたかったのか。

かまって欲しかった。わかって欲しかった。

40過ぎたおっさんがこんなこと言うのは辛い。恥ずかしい。

恥ずかしいけど、それが現実だ。そしてそれをまだ完全に乗り越えたわけではない。

何度でも確認する。

他人の気持ちのほんとのところなんてどんだけ努力してもわからない。

だから道を塞いでフラフラ歩いているおっさんや、でかい声で話す電車で隣に座ったおばさんや、スマホをいじりながら歩いたり自転車乗ってる若者や、危ない運転をするドライバーや、無愛想な店員など、その瞬間にしか関わらない人たちの気持ちなんてわかるはずがない。わからなくていい。わかろうと思うな。理解しようと思うな。

何度でも言う。

わからなくていいの、そんなことは!

そいつらに怒ることは少しでもそいつらと接点を持とうとしてることになる。どんな形であっても人と繋がりたいんだ。

じゃあ、怒ることで接点を持てたとしたら、責任を持って最後までそいつらと向き合うのか?

それはない。どこかで逃げたくなる。しかもけっこう早い段階で。

だったらやめておけ。無責任じゃないか。

繋がるというと聞こえがいいが、かまって欲しい、わかって欲しい、認めて欲しいだけだ。

人を理解したいという気持ちは悪くないのかもしれない。でも人を理解できるという思い上がった考えは持たない方がいい。

そんなに不特定多数の人と繋がらなくてもいいじゃないか。大人数と向き合ってたらしんどいだけだろ。少し考えればわかることだ。

道ですれ違う程度の人の気持ちなんて理解しなくていい。する必要がない。したからといって何も生まれない。しなくていい。とにかくしなくていい。

だいぶわかってきた。ありがたい。楽になってきた。

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南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)

 

 

損得で決めてる

〜気持ちの変化 メモとして03〜

僕はとにかくすぐ怒り、すぐ諦め、すぐその場から逃げる。

アドラー心理学でいうと怒ったり、諦めたり、その場から逃げた方が僕にとって得になるからそういう行動を選択しているらしい。

今は怒れない、諦められない、逃げられない状況がある。

僕の生きたい場所に大嫌いな人がいる。

僕の生きたい場所で求められる能力は僕のキャパを超えている。

でもどうしても僕は(今のところは)そこで生きたい。

そうなると大嫌いな人に文句を言うこともできず、諦めもできないから、なんとかそこに食らいついていくしかない。

まずは怒らないことが必要だった。一度でも怒ったらそこでクビを切られて終わりだ。

最終的な結果はどうなるかわからず、今の僕の能力では明らかに足りないところばかりで、辛い結果になる可能性の方が高い。しかしその世界にいたいなら最終的な結果が出るまでは諦めず努力するしかない。

怒り、諦め、逃げることが僕にとってまったく得にならない今のような状況になって初めて、怒らない、諦めない、逃げないという選択をする努力をはじめたわけだ。

アドラー心理学のいうとおりかもしれない。

そう考えてみるとこれまでよっぽど自分に合わない場所で生きてきたのかも。

納得いく。周りの人たちがどう思うかを基本にして居場所を選んでいたもの。そりゃあ、嫌になる。怒って、諦めて、逃げた方が自分にとっては得だってことにもなるよ。

僕は決して辛いことが嫌いなわけではない。自分と合った世界にいるためならそれなりの忍耐力を発揮できるらしいことも最近になってわかってきた。

悟りを求め、そこに向かう生き方こそ僕に合った生き方だと確信し、そこを土台とできたなら、大げさなことを言うとルンペンになっても平気だということも理屈としてはわかってきた。

お金は欲しい。でもそこを人生の中心には置けない。楽しくない。僕には合わない。

そのくせお金持ちコンプレックスみたいなものはしっかりある。まだどこか心が揺れてるなと思う。

でも何かが見えてきたのは確かだ。

怒らない、諦めない、逃げないで、今ここにいる。

大切だ。

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南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)