幸せな死に方
何かに無我夢中になって取り組んでいるときに死ねたら最高だ。
恐怖も不安もなく気づいたら死んでた。
死に方としたらそれがいい。
死ぬのが怖くてたまらない。
当たり前だが死にたくない。
死にたくないは生きたいたいうこと。
生きるとは今ここでやるべきことをやるということ。
今この瞬間に無我夢中になる。
無我。我を無くす。やっているという意識を無くす。
布団をたたむ、顔を洗う、歯を磨く、仕事をする、料理をする、食事をする、入浴する。
日常の行動すべてをやっているという感覚を忘れるくらいに集中してやる。
これが生きるということだと思う。
生きている間は死を意識しなくてもすむ。
でも何かに無我夢中になれるのも健康あっての話した。
病気になって動けなくなったら。
病院のベットの上でただじっと痛みや苦しみに耐えながら、その先に見える死と向き合えるだろうか。
自分の心と肉体に向き合うしかない状況でなに無我夢中になればいいのだろう。
会話できる相手が死の恐怖にとらわれた自分の心だけになったと想像してみる。
恐ろしい。逃げたい。でも逃げられない。
日常の雑事のありがたさがわかる。
労働は尊い。
僕は自分の心とだけ向き合って生きられるほど強くない。
山に篭ってひとりで修行するなんてとてもできそうにない。
自分の心と向き合うにしても他人の気配を感じられる場所じゃないと無理だと思う。
そう考えてみると、健康で、働けて、日常生活を普通におくることができること、そだけで実はとても幸せなのだと知れる。ありがたい。
健康、ありがとう。
仕事、ありがとう。
身近な人たち、ありがとう。
知らない大勢の人たち、ありがとう。
残念ながら、この感動はすぐに忘れてしまうけとね。
南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)