身内の幸せを願う。それでいい
ほんとに悩んでいるときはあまり言葉が出ない。
自分が発する言葉の重さがわかる。それを聞かされる相手にかかる負担も想像できる。
重い話を聞かされた相手が被る迷惑を考えると言葉を遠慮してしまう。
もうひとつは聞かされる相手は僕の悩みになんて興味ないだろうから適当に流されて蔑ろにされるのはたまったもんじゃないという思い。
自分にとって一大事であっても、他人にとってはどうでもいいこと。
そりゃ、そうだ、
今、この瞬間でも飢えて死ぬ人、戦争で死ぬ人、心身を不当に傷つけられている人が世界中にはたくさんいる。
でも僕はその人たちのことについて悩みはしない。
他人の痛みを自分の痛みとして感じてしまったら、とてもじゃないけど、まともに生きていけない。
痛み、憎しみ、怒り、嫉妬、不安、孤独、焦りといった他人の感じる負の感情が自分の感情に流れ込んできたら発狂してしまう。
他人は他人だ。
他人は他人と割り切れるから、自分を自分として生きていける。
僕が親身になれるのはごくわずかな人に対してだけだ。
でも世界平和も祈ることはできる。
僕が愛するごくわずかな人たちのためなら。
ごくわずかな人への思いから、世界の人へ思いがつながっていく考え方が仏教にはある。
因縁だ。
僕が支払った千円はどこにいって、誰の役に立つかはわからない。姿、形を変えてその千円から派生したものはいろんなところを駆け巡る。
僕が支払った千円も同じようにたくさんの人の手を経てきた千円だ。
自分だけからはじまり、自分だけで終わるものなんてない。
因縁はすべての人をつなぐ。
ひとりの幸せの先には、たくさんの人の幸せがある。
だから堂々と自分の、身内の、親しい人の幸せを願い、そのために動けばいい。
それが大勢の人の幸せにつながることを信じて。
凡人なんだからどうせ大したことなんてできない。
気負わずやればいい。
生きている間に阿弥陀仏を信じる気持ちを不動のものにして、死んだら極楽に往生して、極楽で阿弥陀仏の指導のもとしばらく修行して、大勢の人を救える菩薩となってこの世に出てきたとき。
そのときこそ親類縁者だけでなく、あらゆる人を救うことができる。
そのときを楽しみにして、今はできるだけ他人に負担をかけないことを心がけよう。
南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)