念仏称える健さん

出しゃばらない。これは大切だ。

44歳。社会的な地位はないにもかかわらず経験からくるプライドだけは強くなっている。

なんにしてもなにかしらの意見を言えるだけの知識は身につけた。そのためどんな場所でもなにかしらの意見は言いたくなる。

「そんなことはわかっている」

「そんなことも知らないのか」

「俺が教えてやろう」

そんな気持ちが言葉に乗る。態度にでる。

そして周りから鬱陶しがられ居場所がなくなる。

この歳になって社会的な地位がないことに感謝すべきだ。

もし地位があり、多少は偉そうにしても許され、居場所が確保される場を与えられていたら、僕は単純に嫌なやつになっていたと思う。

地位なしでよかった。ありがとう。少なくとも今より奢らなくてすむ。

地位なんかより、いつでも死ねる覚悟が欲しい。

僕が欲しいのは必ず菩薩となることが約束された不退転の位だ。

如来と等しい位である正定聚(しょうじょうじゅ)に入りたい。

等しいとはゆくゆく等しくなる、如来になることが約束されているという意味だ。

阿弥陀仏を信仰しない人にとってはどうでもいいことかもしれない。そんな人はごめんね。 

簡単に言えば人格者になるということ。性格の良い人。怒らない人。決めつけない人。与えられる人。許す人。救う人。導く人。

今回の人生でそのような人間になるのは無理なので順序がある。

まず阿弥陀仏の救いを深く信じて死んだのち極楽に生まれ変わる。そこで阿弥陀仏からご指導いただき自分が菩薩となり仏となる。そして改めてこの世に生まれて来て多くの人を救う、という流れだ。

まさに大乗仏教

つまりうまくいけば僕はゆくゆく菩薩となれるわけだ。

そのためには、自分は悪人であると自覚する。

時代や状況が変われば窃盗、強姦、殺人も犯してしまいかねない欲望まみれの人間であると知り、その罪深さに打ちのめされる。

そしてそんな悪人を救ってくださるのは阿弥陀仏しかいないと深く信じて疑わない。これらの条件が必要となる。

この条件がそろった上で、「南無阿弥陀仏」と称えるならば必ず極楽に生まれ変われる。

自分が極悪人だと自覚できるなら、出しゃばる気になんてなれない。

若気の至りで人を殺め15年の刑期を終えてシャバに出た男が人目につかぬよう、過去の罪を背負い労働に励む寡黙な日々を送る。

女の子から言い寄られても、「自分なんて、お嬢さんに好いてもらえるような男じゃありませんから」とお断りする。

イメージとしては、念仏を称える刑務所帰りの高倉健さんだ。

そういう男に僕はなりたいのだと思う。