逃げずに、いること
今、ここに僕がいる。それだけで他者との十分なつながりになるときがある。
冬の朝4時は真っ暗だ。幼い頃その時間に目がさめると怖かった。誰もいない。この世に自分一人だけのような気がして。そんなとき新聞配達のバイクの音が聞こえると安心できた。人がいると思えた。
思春期には深夜のラジオ放送が怖さを忘れさせてくれた。地方だったので深夜2時にラジオ放送が終わる日曜日はその後がたまらなくさみしかった。
人がそこにいる。ただそれだけで大げさに言うと救われるのだ。
励まし、慰め、詫び、お礼。言葉が嬉しい時もある。
ただ言葉は信用できないときもある。
本心を隠すために饒舌になることは多い。相手の存在や、共にいる場に耐えられないとき、言葉に逃げてしまう。
黙るためには待たなくてはならない。相手を信じていなければ待てない。
僕は未熟なので大勢の人を信じるなんてできない。わずかな身近な人しか信じられない。しかもまだまだ条件付きの信用だ。
条件とは単純で、僕にとって良い人かどうかというものだ。
決めつけも、条件もできるだけ減らしていきたい。
今、ここにいて、やるべきことをやれる自分でいたい。今、ここにいるだけで、誰かを安らかにしてあげられる自分になりたい。
人から認められることが人とつながることだとばかり思っていた。
僕が誰かを認め、黙って見守るという繋がり方もあるなんて考えてもみなかった。
世間から能力を高く評価されて、安定した地位と収入を手に入れること。僕が望んでいたのはこれなんだと思う。
そのために必要な僕の能力はなにかってことを真剣に考えることなく結果ばかりを欲しがっていた。
歳を重ねるごとに冷静にならざるを得なくなる。自分は大した能力を持たない人間なんだと知る。
未熟な人間が自己主張してまわっても迷惑なだけだ。
だったら黙ってひとりで野菜でも育ててそれを誰かの元に届けたりする方がよっぽど人様の役に立つ。
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善も悪もひっくるめた存在がひとりの尊い人間なのであると知れ。
尊いことが前提だ。善だから尊い、悪だから尊くないなんてことではない。条件なしに尊い。
だから、黙って、今ここに、逃げずにいろ。
誰かの隣に逃げずにいろ。
南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)