逃げないでやる

自分に何かしらの可能性があると信じるなら、他人の可能性も信じられるはずだ。自分の可能性は信じるが、他人の可能性は信じないというのは自分は特別な人間だと思う自惚れだ。

自惚れでいいから欲しい。僕は他人の可能性はもちろんのこと、自分の可能性も信じられていない。

誰にでも仏性はある。誰もが阿弥陀様に救っていただける。誰れもが菩薩になれる。そう信じようとすればするほど他者への怒りが強くなる。

車で危険な運転をするやつ。歩道で道を譲り合わないやつ。口ばかり動かして仕事をしないやつ。言葉と腹の中が違うやつ。家から出るとそんなやつらが目について、外出中は8割ちかくの時間が怒りに費やされる。

ある人からは、「その怒りは正義感の裏返しだ」と指摘された。確かにそれはある。であるなら僕は正しいのか。いや、何か違う。

その怒りは本来は自分自身へ向けられるべきものではないのか。

猛スピードで車を走らせる。人を気にせず譲らず道を占拠して歩く。仕事をせず喋ってばかりいる。口先だけで適当に人との関係を取り繕う。

僕はこんな人間にならないように気をつけている。こんなことをしてたら罪悪感で自分が苦しむだけだからだ。

ここが問題なのだ。罪悪感を抱くからやらないのであって、正義感からというわけではないのだ。

「僕だって我慢してるんだから、てめえもちょっとは我慢しろ、バカヤロウ」という気持ちで僕は怒っている。

僕だって我慢してるというのが本音だ。

つまり僕は自分のケチくささに腹を立てているのだが、その怒りを自分に向けることができず、人に責任をなすりつけているわけだ。

このことから他人への怒りを和らげるためには自分への怒りを和らげる必要があるとわかる。

そのための方法はふたつ。

ひとつは罪悪感を払拭して自分も好き勝手に生きる。

もうひとつは罪悪感に代わる肯定的な価値感を確立することで自分を認めてやる。

前者の方が楽に思えるけど、罪悪感を払拭するのは簡単なことではない。どうしても僕はいい人ぶってしまう。だから後者をめざす。

腹の中と行動が一致しないのは苦しい。その苦しさが外に向かうと僕のように怒りっぽくなり、内に向かう人は心を病む。

外向きと内向きの違いはあっても、自分で自分を壊してしまうという結末は同じだ。

自分を認める。そのためには自分で納得できる価値感を確立する。そしてその価値感に沿って自然に生きる。

価値感を確立するためには多少苦しまないと仕方ない。「お前最近よく張張ってるな。気持ちを切りかえたな」と自分で自分にいってやれるくらいの努力は必要だ。

そのためには目の前にあるものから逃げずに、コツコツ積み上げる。自分で自分を信用してやる。やはりそこに行きつく。

つまりこれまで目の前にあるものから逃げ続け、何も積み上げてこなかったってことなんだけどね。

なんまいだー なんまいだー