地獄行き、再確認

お金さえあれば幸せだなんて本気で思っている人は少なくとも僕のまわりにはいない。お金が全てではないことはわかっている。お金はある特定の幸せを感じるためのひとつのツールにしかすぎない。お金がないことと不幸せはイコールではないのだ。

お金が無くても愛する人と一緒にいられるなら幸せだ。お金がなくても人間関係が良好なら幸せだ。お金が無くても毎日元気に働けるなら幸せだ。

ただしお金があって愛する人と一緒にいられる、お金があって人間関係が良好である、お金があって毎日元気に働けるなら尚のこと幸せだ。

そしてお金がなくて愛する人もいない、お金がなくて人との争いが絶えず、お金がなくて体調が悪く仕事もできないのは辛いだろう。

お金が無くても幸せというのは嘘ではないが、お金があればもっと楽しいのは間違いない。

お金に自分がコントロールされてしまうことがマズイのであって、お金が悪いのではない。

僕なんかはお金を持ってしまうとかなり嫌な奴になると確信している。人を見下して、偉そうに振る舞いはじめるのは確実だ。

奢ってやるから酒でも飲もうと自分の都合で人を呼び出して、終電がなくなればタクシー代を渡して帰らせて、そのあと自分は夜の街で女遊びをする。

お金によって自分をコントロールできなくなるのに比例して他人のことを都合よくコントロールしようとしはじめるだろう。

僕みたいな人間にとってはお金があることが不幸につながるのかもしれない。当の本人である僕はその時には気づかないだろうけど。

 お金が欲しいと僕は強く思う。お金を持つとろくなことにならない僕みたいな人間ほどお金に対する執着が強いのではなかろうか。

お金が欲しいのに手に入らない。そんな状況を自分に納得させるため自問自答する。

阿弥陀様への信仰心をお金に変えれば55億円もらえる。ただし阿弥陀様への信仰心は2度ともどらないとしたら、どうする? 55億円なんていらないはずだ。お金なんてその程度のものだ」

そうだ、その通りだ。僕には阿弥陀様がいてくださる。救ってくださる。じっと見守ってくださる。それを知ることができたことが僕にとってのかけがえのない財産ではないか。

 でもなぁ、55億円もらって阿弥陀様への信仰心を失ったとしても、大日如来薬師如来、釈迦如来等々、他の如来方もおられるからそっちの信仰心をゲットすればオッケーって考え方もあるよなぁ。

 

 

やはり僕は地獄行きだ。悪人だ。お金以前の問題だ。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

阿弥陀様、ごめんなさい!