初めて泣かされた法話

 

ありのままの自分を認める。ありのままに他者も認める。

ありのままの自分を認められないのなら、ありのままの他者も認められない。拒絶から争いへと進む。

僕は完璧じゃない。だったら他の人も完璧じゃないはずなのに他者には自分に対してよりも厳しく正しい姿を求めてしまう。

自分を謙虚にみせながら、他者を非難するなんてのがある。「差別ってほんとに悪だ。俺の心にもそんなところがあるってことが〇〇を見ててほんとによくわかったよ」ってな感じのやり方だ。

自分は反省してる人で〇〇は差別者だと言ってる。

自分の差別心を問題にしているなら〇〇なんて個人名を出す必要はない。この言動の真意は自分を恥じているのではなく、〇〇を差別者として責めたいのだ。

僕はこのパターンをよくやってしまう。

他者をストレートに批判するのではなく、歪んだ批判の仕方なだけにタチが悪い。性格が醜い。嫌なやつだ。

と、こういうふうに自分で自分を責めてみて反省しているかのように振る舞うのも、またずるい。

「僕は自分の欠点をちゃんと知ってます。反省しようとしています。だからお前はこのことについて指摘するな」という意味なのだ。だから、から後ろが本音になる。

私は悪人でございます。欲望まみれでございます。様々な条件がそろえば盗みも殺しをしてしまうかもしれません。あぁ嘆かわしい。

と言ってみたところで、僕の言葉には重みがない。

ほんとに自分の悪を自覚している人の言葉は理解する前に体が反応してしまう。じっとしていられなくなる。

「悪いことをしても責めもせず、罰も与えず、ただジィッと見ておられるお方が一番怖いものです」

ある浄土真宗のお坊さんのこの一言のあと、説教を聞いていた多勢の人が涙して、南無阿弥陀仏と称えはじめた。

話の流れはこうだ。

戦争中の食糧難の時代、男が他人の畑に入りスイカを盗もうとした。幼い子供も一緒だった。男がスイカを手にとったとき、子供が空を見上げて言った。

「お父さん。お月様が見ているね」

男は手に取ったスイカを元に戻した。

それ以降、どんなに苦しくても男は盗みを二度としようとしなかった。

そののち大きくなった子供がある僧侶に言った。

「あの時、お月様が見ていてくれてよかったです。もしお月様が見ていてくれなければ僕は盗人として育っていたことでしょう」

 

 

お月様は見ていない。有機物ではないから見られないに決まってる。

でもその子供の妄想が二人の人間の生き方を変えたのだ。ただじっとそこにいる月があったおかげで。