自分に合掌 他人に合掌
いろんな才能を持つ人がいて、いろんな考え方や価値観があり、いろんな性格の人がいて、いろんな趣味嗜好があるから世界はこれだけいろいろなものであふれている。
いろいろなものがあることは豊かな証拠だ。若い頃はわからなかった。ひとつの価値観をみんなで共有すれば平和になると考えていた。自分の価値観とは異なるものを認めるのが苦手だった。心の狭い人間だった。
信じるものにすがり、認められないものは否定する。若い頃の僕はそうやって自分の輪郭をはっきりさせようとした。
四十も半ばを迎える今は自分の輪郭をはっきりさせることより、自分の内側を理解することに興味が向いている。
服装や髪型はある意味ではどうだっていいと思えるようになってきた。そんなもので僕の本質は表現できない。外見から判断された僕は僕ではない。僕が他人に見せたい僕ってだけだ。
外から見えない秘めたところに何を持つのかによって人生の豊かさが変わってくることを年齢を重ねると実感する。
肉体は滅びに向かうのが人生だ。死に近づいていくと、死によっても滅びないものに意識が向きはじめるのは自然なことだ。
いつまでも物質としての自分にこだわり続けるのはつらい。
お金をかけて若く見える仕掛けを肉体や外見にほどこし続けても限界はくる。限界がきたときにはそれまでに培っておくべきだった死への心の準備ができていない。肉体は衰え自由が効かない悲しみのなかで死と向き合わなくてはならない。こわい。
死への準備をはじめる。それは残りの人生をより良く自分らしく自然に生きてゆくということだ。
あの世に持っていけるのはこの心ひとつ。心は肉体とは違い衰えない。僕は変わり続けている。だからわかる。心の成長は止まらない。
次回の人生では若い頃から自分とは異なる価値観を受け入れられる人間になりたい。そのために僕は人を受け入れていく練習を今から意識してやる。まだまだ心を成長させていく。
人を受け入れるためには、まずは自分を受け入れることだ。自己受容と他者受容は連動しながら度合いを増していくらしい。
人は誰もが阿弥陀仏に救っていただける。
全ての人には仏性がある。
僕も他人もみんな菩薩となる可能性を持っている。
まずはそこから。
Rin-nengでございました。ご無礼いたしました。