他人じゃない、自分だ

昨日の8時15分。原爆死没者に対して黙祷を捧げた。

原爆投下から72年。核兵器はなくならない。

その理由は世界のあちこちに悪人があふれているからだ。政治家、事業化、庶民、老若男女、平和運動する人たち、核兵器こそ抑止力と信じる人たち、核兵器なんてどうだっていいよと思っている人たち。この世は悪人だらけだ。

僕もその悪人のひとりだ。

僕には核兵器を作る技術もないし、核兵器のボタンを押す権利もない。だから何百万人の命を簡単に奪うことはできない。殺す力がないから殺さないだけだ。善人だから殺さないのではない。

平和を実現させるため、少しでも多くの人が幸せであるために僕は僕にできることはしたい。でも社会運動はしない。政治活動もしない。社会運動も政治活動も、世の中が悪くなるのは他の政治家や政党の責任であり、自分たちは正義の側にいるという前提のもとに行われる活動だからだ。

事故を起こすかもしれないと注意するから安全運転を心かげる。

自分の汚さ、醜さ、卑しさを知ることが平和運動への一歩だ。争いは自分が正しいと主張するところからはじまる。だったら、「どうも自分は欲深くて、差別と偏見のかたまりで、好き嫌いで人を判断し、少しでも楽がしたい、少しでも損をしたくないと考え、自分の利益のためなら多少ひとを苦しめても平気な人間かもしれない」とくらい思っていられたら、人様のことを実際に傷つけようなんて気は起こらない。

心の中では、殺すし、殴るし、面と向かって罵るし、相手のいないとこでは口に出して悪口を言うしというのはやめられない。だけど悪人の自覚がある限りは現実的に他者を傷つけることは“かろうじて”しないでいられる。

過去の歴史から学べ!政治が悪い!

そう叫ぶのはいい。でもその叫びが、「過去の歴史から学べば人間は善人になれる。私は学んだひとりだ」や「自分たちの主張どおりに政治が動けば世の中は平和になる」と信じて叫ぶなら、自分たちは批判される側と同じタイプの人間だと知らなければならない。

条件さえ整えば人は人を殺す。これは歴史が証明している。

人を殺さないでいられる状況に生まれたことへの喜びと、人を殺す可能性を秘めている自分であることへの恐れを持つことが平和への一歩だ。

他人をどうこうしようとするところからは何もはじまらない。他人じゃない、自分だ。