こだわりの対象への強さが反比例する

自分のような欲まみれの悪人であっても阿弥陀仏は確実に救ってくださると信じる。

ならば僕以外の欲にまみれた悪人であっても阿弥陀仏は救ってしまわれる。たとえその悪人が僕を殴り殺した奴だとしても。僕の妻にひどいことをして殺したやつだとしても。その悪人が阿弥陀仏の教えを深く信じて念仏するなら阿弥陀仏の浄土に生まれ変わることができるのだ。

「あんなひどい奴は救われるわけがない」と自分を殺された恨みから僕がそう思うようであれば、僕は阿弥陀仏の、「誰でも必ず救うぞ」という約束を信じていないことになり、僕こそが救われない人になってしまう。

恨み、つらみ、妬みから阿弥陀仏の救いを捻じ曲げてとらえそうになる自分の弱い気持ちを乗り越えて、誰もが救われる可能性を秘めた人であるということを肚に落とし込めるようになることが僕の人生の課題だと思っている。

誰もが救われる可能性を持つ人たちだと思えるようになるとはどういうことか。それは自分のことを本当に凡人、悪人、ろくでなしだと認められたということ。そこを認められたなら他人が救われるのか、救われないのかなんて言える立場に自分がいないことがはっきりとわかる。

簡単な言葉で言えば謙虚になるということだ。

僕は謙虚になりたい。目立つ場所はバンドのステージの上だけでいい。人のことをとやかく言わず、人からもとやかく言われず、その場所に居ても目立たないが居ないといないで困るって人になりたい。

凡人になりたい。もはや凡人ではあるのだが、気持ちに色気がある。心のどこかで凡人ではないと思われたいという色気がある。世間の評価をまだ求めている。

万人が救われるべき人であり、仏性を持つ人であるという確信を持つために、まずはこの色気を捨てることだ。

最近、いい意味で服装にはこだわらなくなってきたので、少しは色気が抜けてきた気はするけど、外見への関心と反比例するように中身で勝負してやれって色気も出てくるからややこしい。