マイナスがプラスをもたらす
マイナスの出来事はプラスのなにかを得るための支出なのだと思う。
ついこのあいだまで僕の職場はとても快適だった。
仕事内容も人間関係も僕にとっては良好で、これまで働いてきた経験のなかでも一番恵まれた環境だと思っていた。
やつが来るまでは。
ある日、やつがやってきた。
やつはよく喋る。
相手が話していても食い気味で喋り、人の話題を奪う。
やつはルールを決める、仕切る。
一番の新人なのに先輩に対して指示を出す。
でしゃばり。
人数が極端に少ない職場だ。
やつひとりの存在がしめる割合はでかい。
僕にとっては快適だった職場が一変した。
みんなが互いに気をつかいながら、相手のテリトリーは犯さず和を保っていた職場はやつの王国になってしまった。
なんでも言ったもん勝ちかい!
「議論は声のでかいやつが最後に勝つ」と西郷隆盛は言ったらしい。
嘘ではなかった。
天国から地獄とまでは言わないが、楽しかった出勤が憂鬱になるくらいの影響はある。
悔しい。
でしゃばりに負ける自分が。
でも、でしゃばりに負けないくらいでしゃばることもできない。
がまんもできない。
考え方を変えるしかない。
でしゃばりがやってきたことによる良い影響はそこそこあるのだろうが、その良い影響は僕にとってはこの職場には必要のないもの、もっと言えばそこがなくお客様第一であったからこその素晴らしい職場だと感じていたから、でしゃばりの良い面だけを見るっていう解決策はない。
でしゃばりを、でしゃばりのままに僕にとって意味ある存在として受け取める考え方が必要だ。
でしゃばりが現れなかったらどうなっていたかを考えてみた。
でしゃばりが現れなかった場合のプラス面を考えてしまうと、結局でしゃばりは要らないって結論になってしまい意味がない。
でしゃばりの必要性を見つけるのが目的だ。
でしゃばりが現れなかった場合のマイナス面を想像してみた。
気づいた。
もし、でしゃばりが現れなかったら、僕は恵まれた職場への感謝を忘れ、不満をもらし、横柄な態度をとりはじめていたのではないだろうか。
でしゃばりが現れなかったら、僕がでしゃばりになっていたかもしれない。
でしゃばりは僕のマイナスをプラスに転じてくれる。
でしゃばりに対する不満や緊張、怒りという負のエネルギーは全てプラスになって僕に返ってくるのだ。
でしゃばりに対する思いが変わってきた。
「ありがとう、でしゃばり! 大嫌いだけど!」
そんな気持ちだ。
好きになろうとするとしんどい。
嫌いでいい。
必要な人なのだと思えたらそれでじゅうぶんだ。
今日も僕はでしゃばりのおかげで何かプラスのものを得る。