感情移入の禁止

あいかわらず職場で愚痴ばかりこぼしている奴がいる。

そいつは自分が気持ちさえ決めたらその環境から簡単に抜け出せるのに変化を恐れて動こうとしない。

結局、今の環境が心地いいだけじゃねえか。

愚痴こぼして他人を巻き込むんじゃねえよ。

ほんとに嫌ならそこから動けよ、バカかお前は。

以前なら自分の価値観を押しつけるアドバイスを僕はしてしまっていた。

今はまったくそんな気にならない。

ほんとにまったく。

人はアドバイスなんて聞いてない。

アドバイスなんて届かないと知ったから。

これだけでも僕にとってはコペルニクス的転換くらいの心境の変化なのだ。

その上にもう一つ変わったことがある。

僕も居場所を失いたくない。

だからそいつとはうまいことやる。

この感覚だ。

以前は居場所よりも僕なりの正義感の方が大切だった。

自分なりの正義を貫けずに妥協するのは負けを意味する。

負けてその場にしがみついても人生は開けない。

正義感を貫けば目先の居場所は失っても次のステップの居場所が見つかる。

長い目で見れば勝つ。

そういう信念できた。

今は違う。

自分なりの正義感なんてとりあえずはいらない。

そんなものを貫くより、自分と自分の大切な人たちの生活が少しでも良いものになるために自分ができることをする方が重要だ。

僕が波風を立てて居場所を失えば大切な人たちにも影響がでる。

だから人とうまくやる術を身につけたいと思いはじめた。

そして日一日と確実にその感覚が身についている。

今まではくだらないことに感情を引っ張られすぎた。

そりゃあ毎日疲れる。

どうでもいいやつのことをけっこうな時間を割いて考えてきた。

どうでもいいやつのことは、どうでもいい。

この一言に尽きる。

自分の人生の責任は自分でとるしかない。

他人の人生の責任を僕がとる必要はない。

だったらどうでもいい他人のことなんて放っておけばいい。

当たり前だ。

あとは、どうでもいい人と、どうでもいい場に自分が置かれたとき、その場の会話とはまったく別のことを考えていても他の人にバレないテクニックを身につけたい。

言い方を変えたら、その場の話に感情移入を“まったく”せずにいられるテクニックを身につけたいということ。

興味ない話と場には感情移入しない。

これからの課題はしばらくこれでいこう。

我以外皆我師

アドバイスが有効だとは思わない。

ただ自分から相談をもちかけておいて相手がしてくれるアドバイスをいちいち否定する奴には今すぐいなくなってもらいたい。

話がすすまない。

時間の無駄だ。

アドバイスするやつも悪い。

否定されるとわかっていてアドバイスするなんて。

とにかく相談という形の愚痴で人の大切な時間を奪うな。

死ぬまでの貴重な時間を無駄にしている場合ではない。

だから僕は相談という形の愚痴を聞かされたときには、努めて愚痴を肯定するようにしている。

愚痴をこぼしてる姿がいかに惨めかわからせるためには、そいつの愚痴を大袈裟に肯定してやればいい。

愚痴に対して2割増しくらいにそいつの愚痴を言い換えて肯定して返してやる。

人から代弁されると客観的になれるので賢い奴なら自分がこぼしている愚痴のかっこ悪さに気づく。

バカな奴は賛同者を得たと思ってより愚痴が激しくなる。

そうなったら付き合いきれないから放っておく。

話がバカすぎて楽しい場合はもう少しのっかることもある。

ただ基本的には限界がきたらその場にいる他の誰かに任せる。

愚痴ばかりこぼしてたらなめられるんだな、結局。

みんな親身に相談にのってくれてるようにみせてるけど、「こいつはこの程度のことでグズグズ言う弱い奴なんだな。なめてよし」と内心では判断している。

愚痴は言う相手を間違えると自分のポジションを落とすことにしかならない。

愚痴をこぼすのは弱点をさらす行為なのだから。

愚痴に対するアドバイスを否定するのは弱点の克服方法を否定しているのであり、僕は弱点を克服する勇気も決意も持てないおこちゃまですと宣言しているのと同じ。

バカだ。

こういうバカが身近にいたおかげで、40歳過ぎても愚痴ばかりこぼしていた大バカ野郎の僕も愚痴のかっこ悪さに気づけた。

「 我以外皆我師」

吉川英治の残したこの言葉を僕は漫画の「空手バカ一代」で知った。

自分の不足を見せられるから怒るのだ。

相手も足らないかもしれないが、自分も足らない。

変えられるのは自分だけ。

変えるべきは自分だ。 

マス大山先生、ありがとうございます。

苦しいことがあったら腹筋を鍛えます。

1日10回寝る前に。

チェストー!!!

うまく死ねない

人のことをあれこれ考えるのが面倒くさくなってきた。

これまでは、そうしようと意識しないとできなかったけど、今はほんとにどうでもいいと思える瞬間が増えてきた。

人の生き方にとやかく言ってる暇も、権利も僕にはない。

他人の人生なんだから好きにしたらいい。

うまくいこうがいくまいがその人の責任だ。

僕もそうだ。

僕の人生だ。

他人にとやかく言われる筋合いはない。

ここがわかってから変わってきた。

僕は他人からあれこれ言われやすいタイプだった。

「それは間違っている」

「こうした方がいい」

ずっと誰かに言われ続けてきた。

それらのアドバイスには一理あると思い僕は耳を傾けた。

そうするとより一層言いやすくなるみたいで、アドバイスが増えてくる。

うっとうしくなるが自分で決める勇気もないから耳を傾けていた。

今は違う。

勇気が少し持てた。

自分で決めて、その責任を引き受けるという当たり前の気持ちが芽生えてきた。

自分で決められないかぎり、人生は誰かのせいになる。

誰かのせいになるから、誰かに怒り続けなくてはならない。

怒りを基本とした興味を他人に抱いてしまう原因はそこにあった。

自分で決める。

いつか死ぬんだから。

死ぬときはひとりだ。

甘えていたらうまく死ねないよ。

気づくの遅いけどね。

44歳だし。

うまく死にたいから、がんばる。

自分で決め、自分で拭け

他人のことを羨んでばかりいる奴がいる。

他人にはあるが自分にはないものに目が行く。

僕から見れば羨んでる奴だって、充分過ぎるほど持っている。

「あんたも充分持ってるよ」と言ってあげたところで意味はない。

持っていないと本人が思っている以上、本人にとってはそれが現実だ。

じゃあ他人を羨んでいる奴がまったく自分に自信がないのかというとちょっと違う。

強烈なプライドも持っている。

ここだけは負けていないとアピールしてくる分野はある。

じゃあそこにすがって生きたらいいのに、それはできない。

足りない不満から生まれたプライドは簡単に裏返ってネガティブな面をさらけ出す。

ほんとの自信につながらない。

プライドなんてクソの役にも立たないんだな。

でも仕方ない。

現実を変えられるのは本人だけだ。

現実を作り上げている考え方を変える。

僕もクソみたいなプライドをたくさん持っている。

たくさんの不足を感じているからだ。

不足に対して「なぜ?」と問いかけて出た答えに納得できることは、ほぼない。

なぜ?に答えを見つけても、それを理由にしていじける自分を肯定するだけだ。

大切なのは、「だったらどうしたい? どうなりたい?」という問いだろ。

持ってないからあきらめるっていうのが答えならグズグズ言わずにあきらめとけ。

今は持ってないけど必ず手に入れるっていうのならそこ目指して努力しろ。

持ってない分は別のもので補ってやるっていうなら新たな何かにチャレンジしろ。

「ここにはいたくないなぁ。でもここ以外に居場所はないしなぁ。でもこのままじゃあまずいってことはわかってるんだよなぁ。でもこの先どうしたらいいかわからないしなぁ」

ってバカか、てめえは。

右も左も自分で選べないなら家に帰って母ちゃんのおっぱいでも吸ってろ。

おろおろしててもはじまらない。

決断する意思持て。

その責任をとる勇気を手に入れろ。

決断と責任から逃れようとする奴はいつまでもクソにもならないプライドにしがみつき続けるしかなくなるぞ。

他人を羨む前に、自分の人生のどれだけのことを自分で決め、自分でケツを拭いてきたかを考えてみろ。

耐えて、忍んで、努力する。

その先に勝利がある。

バイトの誇り

今日もアルバイトをした。

商品のピッキング作業だ。

アルバイトのなかでは僕が一番仕事が確実で速い。

常に動き、止まらない。

何もしない時間を作らない。

次にすべきことは何かを常に考えている。

時給以上の仕事をするのは日本人として当然のことだ。

僕からしたらバイト先のおっさん、おばさんは時給に見合った働きをしていない。

時間つぶしの、時給どろぼうだ。

そういうやつらが今の不景気を生んだ。

僕が責任者だったらみな解雇する。

仕事をなめるなよ。

僕はバイトでも責任感をもって仕事をしている。

バイトだからこそ責任を持つ。

商品を間違わないように選び、箱に詰める。

それだけの作業に無駄とミスの多いことといったら。

遊びに来てるんじゃねえぞ、おっさん、おばさん。

こんな誰にでもできる仕事でミスを頻発しやがって。

恥ずかしくないのか。

こんな誰にでもできる仕事でミスばっかりして。

誰にでもできる仕事

誰にでも、できる、仕事。。。

44歳。働き盛り。

誰にでもできる仕事だとしても、従事する人間によってクオリティは変わってくるはずだ。

明日もアルバイトをかんばんるぞ。

社会にしっかり貢献だ。

時給なんぼでは限界あるぜ

おっさんはおとなしくしておけ。

若い者にはまだ負けないなんて思わない方がいい。

若い者にはかなわない。

昔ならおっさんは若い奴らより稼いでいた。

今は若者もおっさんも金かない。

若者もおっさんも安居酒屋にいく。

若さもなければ金もないおっさんは完敗だ。

おっさんはどこに行けばいい。

どこにいたらいい。

終身雇用、福利厚生、一億総中流

昔の話だ。

平和も長くは続かない。

近いうちに戦争になるだろう。

でもおっさんは戦争にも行けない。

若い奴らが戦地でがんばってる間に、銃後で若い女の子の相手でもしてればいいならまだしも、そんな役はどうせ金持ちのはげおやじに持って行かれるだろう。

資本主義からは犠牲的英雄は生まれない。

物理的欲望の充足の追求を肯定すれば人の誇りは失われる。

命あっての物種精神。

命を惜しんで生き延びた方々の子孫が僕たちだ。

感謝しなくちゃな。

おっさんをなめるなよ。

なめられないようなことはしてないけど。

儒教精神で敬えよ。

僕も敬ってこなかったけど。

僕はおっさんになった。

安定した仕事も金も地位も才能もないおっさんはどう生きる。

自己責任で終わらせるにはあまりに辛い。

なんとしても妻だけは幸せにしてあげたい。

でも今は身を粉にして働いても稼げる額は知れている。

時給850円。

長所が死んだ

人とうまく付き合うにはどうすればいいのか。

社会にうまくなじむにはどうしたらいいのか。

納得できる生き方をするにはどうしたらいいのか。

そんなことばかり考え続けてきた44歳だ。

もう遅い。

逆転はない。

あきらめるしかない。

わかっている。

だからどのようにあきらめをつけるかに関心が移りつつある。

先日、予定なしにライブハウスに立ち寄った。

若い子のバンドばかり。

演奏はうまい。

聞いていて気持ちいい。

僕は素直に歓声をあげた。

でも何かしっくりこない。

周りから浮いている。

周りを気にせずライブを観に行ったときには踊って歓声を上げてきた。

若いころからずっとそう。

周りの反応は気にしない。

気持ちが高ぶればそれを素直に表現した。

出演者からは喜ばれた。

今はそれができない。

一見のおっさんがはしゃぐ姿を周囲の若者はどう見るのだろうか。

そのことが気になり、感情を表現できない。

もうだめだ。

こうなったらおしまい。

僕の長所が死んだ。

マイ長所・イズ・デッド

翌日は爆音のおかけで耳鳴りがする。

考えた。

僕の長所が死んだ。

一番の長所が。

死んだら終わりか。

もう終わりか。

なぜ死ぬのか。

死んだらもう次はないのか。

いやいやいや。

生まれ変わるための死もある。

というか、生まれかわるためにこそ死はある。

死なないと生まれ変われない。

だったらラッキー。

生まれ変われたのだ。

親鸞聖人は死んでからではなく、生きている今この場で阿弥陀様に救われることが決まると教えられた。

他力の信心を得ることによって救いは今この瞬間に約束される。

さように生きて生まれ変わることは可能なのだ。

僕の長所は死んだ。

僕は死んだ。

だから生まれ変わった。

だったらどう生まれ変わるか。

死んだ長所の対極にあるものをみたらいい。

着実に積み上げる。

粛々とやる。

出しゃばらない。

静かに耐える。

余計な我は殺す。

わきまえる。

生まれ変わるならこの方向だ。

これらは人とうまくやれる人間になるという今の僕の目標とも合致する。

心の変化がすべてそこに向かってきている。

 引っ込んでろ中年おやじ。

はーい。

負け犬、バンザイ。

方向性に間違いはない。