無関心に近づいた

やった。

人に無関心になれるようになってきた。

確信した。

間違いなく人のことを気にしないでいられるようになっている。

自転車乗っていてもイラつくことがかなり少なくなった。

職場のおばさんにムカつく回数も減ったし、ムカついてもすぐに、「仕方ない」「関係ない」と思える。

きた、この感じ。

この調子でどんどん人に無関心になっていきたい。

この勢いのまま他人とうまいこと付き合える人間になりたい。

簡単に感情に身を委ねず、先の損得をしっかり考えて言動を選ぶ。

ほんとに楽だ。

というか、楽しい。

感情を乗り越えるたびに達成感がある。

ちくしょう。

世間の奴らはこんな気持ちでうまいこと他人と付き合っていやがったんだな。

ほんと、うまいことやりやがって。

これからは僕も仲間入り。

うまくやる。

波風立てずに。

先を見て。

損得をしっかり考えて。

感情に任せず、うまくやる。

この感じ。

この感覚が若いころにあれば、新卒でしっかり就職活動しただろう。

就職したら数年は謙虚に先輩に従い、社会的な常識を身につける。

常識とはうまくやるテクニックのこと。

集団の和を乱さないようにしながらも不適切に自分を殺さないやり方だ。

ほんとにやりたいことは腹の中に置いて、職場の仲間とは無理に共有しない。

会社とプライベートはしっかり分ける。、

そうしてさえしていれば今ごろはまた違う環境にいたはずだ。

遅ればせながらこれからだ。

やり方はわかった。

体感した。

あとはこれをくせにする。

反復して身につける。

仕方ない。

どうしようもない。

あきらめ、バンザイ。

他人のことなんか、誰が知るかい。

この先に自分らしい生き方がある。

やれる、やってやる

来年で45:歳になる。

この歳で再就職は難しい。

今のバイト先で生き残るしかない。

キレてバイトをやめるなんてもっての他だ。

これまでは職場で気に入らないことがあれば態度に出してきた。

それが相手にプレッシャーをかけることになると思っていたから。

結果はいつも自分が職場を去ることになり終わり。

何の力もないくせに、態度は悪く、口だけ達者な鬱陶しい中年おやじでしかないと気づけなかった。

かっこよく言えば、真っ向勝負。

本質は我慢を知らないクソおやじ。 

職場の人間関係なんて自分がほんとにやりたいことをやるためのお金と時間を得るための手段のおまけみたいなものと割り切ってしまえばよかった。

その感覚がなかった。 

今はあとがない。

だからそれができる。

できるというか、せざるを得ない。

以前だったら確実に意見していた場でも意見しない。

否定したい価値観があっても否定しない。

物わかりのいいおっさんになろうと努力している。

腹の中の本音と発する言葉のギャップが地味だけど楽しい。

自分の感情を抑え、賛成できないことに対しても否定せず、そういう考え方もあるんですねと発言し、もやもやした感情を消化する。

この一連の流れが新鮮だ。

人とはうまくやればいいっていうのはこういうことだったのか。

その先に自分の居場所の確保、つまり、とりあえずの安定した収入と自由にできる時間の確保という目標がある。感情的になっても他者をコントロールできない。

感情は表に出さず内に秘める。

人とうまくやっている。

とちらかというと目立たない。

そういう奴のなかに、やばい奴がいる。

極秘捜査にあたってる警察官、爆弾作ってる過激派って感じだ。

今の僕には自分の居場所の確保、つまり、とりあえずの安定した収入と自由にできる時間の確保という目標がある。

絶対に守らなくてはならないものや、やりとげたい目標があれば自分の感情なんて殺せるのだろう。

妻のためになら殺せる。

これならできそうだ。

やってやる。

今までの失敗を取り返してやる。

極秘捜査も爆弾も作らない。

45歳アルバイトの本気を見せてやるぜ。

逃げないで、味わいつくす

まぁいいか。

仕方ない。

自分は自分、他人は他人。

そうやって人と適切な心の距離をとる。

他人のテリトリーを認めると自分のテリトリーも侵されなくなる。

他人には他人の価値観があると認めるのと、自分には自分の価値観があると認めるのとはワンセットだ。

自分の価値観を確立しないと他人の価値観も認められない。

僕には自分の価値観を肯定する自信がない。

誰かに認めてもらわないと不安だから他人に自分の価値観を押し付けようとする。

中途半端な仲間づくり。

受け入れらないから怒った。

自分の価値観を自分だけで肯定できないなら、その価値観は自分のものではない。

誰かから与えられた価値観で物事を判断している限り他人に目が向く。

他人が基準だから仕方ない。

他人がどうなのか、他人にどう思われているのかが一番の問題になる。

自分に自信がないと他人にコントロールされ続けるわけだ。

他人に選択を任せていれば失敗は他人のせいにできる。

自分で決めたら責任は自分にある。

自分の実力や限界を知るのは怖い。

怖いから逃げる。

逃げてるのに逃げられていない。

逃げずにそこにいて対人関係の不快さを見つめ、感情の浮き沈みを静かに味わうことで他者のコントロールから逃れる道がみつかる。

感情の課題をクリアするためにはその感情を味わい尽くすしか方法はなさそうだ。

今日もいろんな感情を味わいに職場に行く。

味わってお腹いっぱいたなったらその感情はなくなるだろう。

激しく浮き沈みをする感情を静かに味わおう。

味わう際のルールは、逃げない、これだけ。

 

失望しなかった

仕方ない、関係ない、興味がない。

僕の出る幕じゃない。

そう想える場面が増えてきた。

そうすると職場の苦手なおばさんのことがあまり気にならなくなってきた。

気にしても疲れるだけ。

仕事場だけの付き合いだ。

この人がどうなろうと僕にはあまり関係ない。

そんなふうに思えるようになってきたのにはきっかけがあった。

僕のいる部署の責任者は僕よりひとまわり年下の男性だ。

彼はよく頑張っている。

だから僕は彼のためにも頑張ろうと思っていた。

ある日彼がおばさんといっしょに客様の悪口を言っていた。

ちなみにその彼もおばさんのことは僕と同じく苦手だ。

もともと愚痴の多い男ではあった。

だけどお客様のことはそれほど悪く言わなかった。

お客様のおかげで自分たちは仕事ができると言っていた。

その彼がすごい勢いでお客様の悪口を言っている。

しかも明らかにお客様の言い分が正しいにも関わらず、「なんだか嫌い。腹が立つ。謝りたくない」と繰り返していた。

おばさんも激しく同意していた。

それを聞いて僕は彼のために頑張ろうという思いが無くなったようだ。

これまで僕はおばさんがいいかげんな仕事をしていたら、お客様のため、彼のために、おばさんになんとなく意見を伝えていた。

それは本来であれば彼がやるべきことだ。

彼はずっとそれを避けていた。

避けてあとで愚痴っていた。

僕はこれからはその役割を担わない。

僕も出しゃばりだったと反省したから。

彼のことを嫌いになったわけではない。

彼の人格に対する評価にそれほど変化はない。

彼の人生だ。僕には関係ない。

そう思えるようになっただけ。

同時におばさんの悪いところも意見するほどまでには気にならなくなっていた。

あきらめるってこういうことか。

彼やおばさんにもっと失望するかなと思っていたけど。

好きか嫌いかしかなかった僕にとっては初めての感覚だ。

こんなふうに気持ちに変化があるときは、その変化を止めようとする力も働く。

それがいま自信のなさというかたちで僕の心を揺さぶっている。

変わらないでいろよ、人に期待し続けたらいいじやん、人に興味を持ち続けたらいいじゃん、人に興味を持たなくなったらさみしいよ、虚しいよ、と足を引っ張ろうとする。

それが自信のなさとなってあらわれているのだと思う。

人生で一番大きな変化のチャンスが訪れている。

だから必ず変わる。

戻らない。

他人は他人だってことが腹の底から納得できたとき、僕は僕、僕の人生は僕が決めるとはっきり宣言できるようになれるはずだ。

やっと、ここまでたどり着いた。

自信がない

僕には自信がない。

自信がないのをごまかすために外見にこだわってきた。

そんなのはすぐばれる。

なめられる。

精神的な安定、つまり自信、自分を信じる力がない限り負けて逃げてを続けるしかない。

自信が欲しい。

成功体験を積みたい。

自分を信じたい。

昨日の自分と今日の自分は同一人物だろうか? 僕はほんとに僕なのか? なんてことは思わないから、そういう意味では自分を信じていないわけじゃないけどね。

中年期危機だ。

生まれてこのかたずっと危機だけどね。

やりたいことはたくさんあるのに、やれることはほとんどないってのはつらい。

みんなそんなもんかな。

 

がっかりしたい

これまで人に関心を持ちすぎたおかげでたくさんの無駄なエネルギーを消費してきた。

他人に余計なアドバイスをしてきたし、何かあれば僕が他人に相談もしてきた。

言えることはひとつ。

余計だった。

アドバイスした相手は、「なるほど、よくわかりました。ありがとうございます」と毎回言ってくれた。

でもいつまでも変わらなかった。

僕の相談にのってくれた人のアドバイスは正論だった。

でも僕は変われなかった。

正論の通りに人が動くなら平和だ。

戦争も殺人も暴行も盗みも不倫も格差もない。

僕は人の言葉を鵜呑みにするタイプだった。

いろいろ騙された。

でもまだどこかで人を信じようとした。

するとまた騙された。

虚しさが増してきた。

人のアドバイスはいらない。

人にアドバイスをしない。

僕の人生は僕が決める。

他人の人生は他人のものだ。

自分を犠牲にしてでも守りたいと思えない奴のために親身になる必要なんてない。

適当に聞き流せ。

面白いもので適当に聞き流せるようになればなるほど、人が僕にいろいろ話してくるようになる。

以前は些細な話でも反対の意見を持っていれば迷わず意見を述べていた。

それが今は、「なるほどそういうことですか」と聞き流す。

「あなたが言いたいことは、こういうことですよね」と相手の言葉を言い換えて伝える。

ほんとうは、「あなたの価値観なんて僕にとってはどうでもいいです」と言いたい。

どうせ大した価値観じゃないんだから聞きたくもない。

でも社会だ。仕方ない。

アドバイスしたって変わらないのだったら、もうしない。

他人とほんとにわかり合うのは困難なのだから、わかり合おうとしなくていい。

ただそれだけ。

人に対して諦めがつけられるようになるためにはあとすこし人にがっかりさせられる必要がありそうだ。

人にがっかりさせられればさせられるほど、妻や仲間を大切に思えるようになる。

不思議だ。

無期限モラトリアム

今日もおかげさまで負け犬の一日がはじまった。

尻尾を巻いて逃げたとしても、逃げた先にもまた人生があるんだなぁ。

健康のために一日一食を続けている。

僕はなぜ健康でいたいのだろう。

少しでも長く生きていたいからか。

だとしたらあまり意味がない。

とこまで長生きしようがいつか必ず死ぬのだから。

死を恐れる限り生きたいという思いは執着となる。

死にたくないから生きるのでは何かおかしい。

なぜ生きるのか。

問題はそこだ。

健康は何かを成し遂げるために必要なもの。

健康であること自体が目的ではない。

阿弥陀仏の浄土に生まれ、そこで修行を積み菩薩となってまたこの世に生まれ、多くの人を救うこと。

これが僕の輪廻をまたぐ目標だ。

そのためには阿弥陀仏が僕を必ず救ってくださり、極楽に生まれさせてくださると信じて微塵も疑わない心を手に入れなくてはならない。

つまり僕が生きることの目的は阿弥陀仏を絶対に信じる心を手に入れることにある。

そのために健康でありたいと願うのが本筋だ。

とはいえ何事もなく平和な毎日のなかで信心をゲットするのは難しい。

健康なときには健康のありがたさを感じない。

元気で働けている間は死なんて意識しない。

自分が死に直面したり、近しい人の死に触れたとき、初めて生々しく死を感じ、死について考えはじめる。

やはり死をリアリティをもって感じなければ本当の信仰心は生まれない。

いつ死んでもいいと思えたときが信じる心が確立したときだ。

僕の人生の本質を表現する言葉、絵、音楽、何らかの作品、そういったものが自分のなかから生まれてきて、それを表現できたときに僕は死んでもいい心境になるのだと思っている。

僕は僕の人生をしっかりと表現できる何かを求めて生きている。

そこに尽きる。

菩薩になるために表現するってかっこいい。

「僕は菩薩になりたい。

そのために見る人、聞く人、読む人の側に寄り添っているような温もりが感じられる作品をつくるんだ。

悩み苦しんでいる人がこの世に一人でもいる限り、僕の表現は未完成だ」

なんてことをインタビューで話したい。

そんな夢想ばかりしていたから40歳半ばにして完全な負け犬になった。

無期限モラトリアムの大馬鹿野郎。