どうしても興味が

職場にいるやっかいなおばさん。

人の話を聞かない。

自分の話ばかりする。人が話していても話題を奪って自分の話をははじめる。

珍しく人に質問してきたなと思ったら、質問された人が答えはじめたらすぐ話題を奪う。

ずっとしゃべっている。仕事の手を止めてしゃべる。

自称、人に気をつかいすぎて疲れるらしい。

ぞっとする話を聞くとすぐ鳥肌を立てる。そして、「鳥肌たった」とアピールする。鳥肌コントロール

人の話にすぐ感動する。「涙が出そう」とよく言う。出てない。

相談されてもいないのにアドバイスをはじめる。

聞かれてもいないのに自分の体験を語りはじめる。

政治のことは裏の裏まで知っているらしく、陰謀に詳しい。国家機密も知っている。

「自分はきれいではないから若いころもてなかった。でもそれで良かった。危ない目にあわずにすんだから」という話をよくする。その話をされるたびみんな沈黙する。

「この職場は今までのなかで一番居心地がいい。これまで人間関係で悩むことが多かったから。今は苦手な人がいない」とみんなの前で言う。どこでも人間関係のトラブルを発生させていたと自分で暴露しただけ。みなが我慢しているから居心地が良いだけと気づけない。

「間違ってたら遠慮無く注意してね」「自分は一番仕事ができない新参者だから」「いつも⚪⚪さんがいてくれてほんとに助かります」「⚪⚪さん、絶対やめないでくださいね」といった言葉の真意は全て反対にある。

最初、このおばさんのことを大嫌いだった。

いなくなればいいと思っていた。

でも今は違う。

そのおばあさんがいてくれるから調和が保たれていると思うようになった。

おばさんは少なくともみんなの負の感情を請け負ってくれる。

おばさんがいなければ別の人がその役を引き受けるだけだ。

銀座、六本木、表参道、渋谷、池袋、上野、浅草等々。

それぞれの街に似合う人たちがいる。

個性のある街や人が集まってこそ豊かな都市。

どんな人でも排除するべきではないとおばさんから学んでいる。

おばさんかいるから人の言動に感情を動かさない訓練ができる。

人に無関心になる訓練ができる。

人なんて関係ない、人になんて興味がない。

僕が学ぶべきものを身につける手伝いをしてくれるおばさん。

ただ、どういう体験を積んだらこれほど身勝手で鈍感な人になれるのかってとこにどうしても興味を持ってしまう。

そこがつらい。

目立たない、でも、役に立つ

他人を批判したくなってもグッとこらえる努力をしている。

すると自分の内面に意識が向く。

 

言ってることと本音が違う。

自分以外の人をバカにしている。

自分のことしか考えていない。

指示した通りに仕事をしない。

やってますアピールが激しい。

ミスしても謝らない。

気が利かない。

がさつ。

ケチ。

暗い。

最近僕が他人を批判するために使った言葉たち。

落ち着いてみると人を批判したポイントは自分も持っているものだと気づく。

悪口を言ったあとの嫌悪感がひどい。

悪口は人に向けられた言葉のはずだが、ほんとは自分に向けられたものであることをわかっているのだろう。

人のことを悪く言うことで自分はその悪い部分を持っていないとアピールする。

そのアピールは逆効果だとは気づけない。

 

話す内容、使う言葉、ファッション、立ち居振る舞いetc

自分が演出する自分は、他人に見せたい自分だ。

過剰な関西弁。威圧的な言動。過度な丁寧さ。若づくりなファッション。場にそぐわないお洒落。髭。

相手に持たせたい自分のイメージが赤裸々過ぎて恥ずかしくなる。

裸で歩いているようなものだ。

それが僕だ。

なめられたくないという演出をするからなめられる。

僕は有能だという演出をするから無能だと見抜かれる。

内面が充実していけば外面へのこだわりは弱くなっていくはずだ。

だから僕はまず外面へのこだわりを意図的に無くしていった。

髪を伸ばし六四分けにして、髭を剃り、日常の作業着はTシャツにジーパンで固定した。

普通より普通っぽい中年おやじになろうとしている。

おかげで外面へのこだわりは大分なくなった。

外面にこだわらなくなるのと比例して内面へ意識が向く時間も長くなっている。

形から入るのも間違いではない。

他人にどう見られているかを気にしなくなれば、他人の言動ももっと気にならなくなるはず。

僕自身が目立たなくなり、癖がなくなっていくにつれ僕の行為は世の中の役に立っていく。

そんな人になりたい。

南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)

人とはうまくやればいい

44歳の秋にきて大きな気づきがあった。

「人とはうまく付き合えばいい」

これだ。

人と接するときに僕は無意識のうちに2つの「すべきである」という考えに縛られてきた。

ひとつは誠意を持って人と接するべきというもの。

もうひとつは正論を貫くために現実を変える努力をすべきというもの。

誠意とは裏表のない態度のことで、簡単に言えば好き嫌い、喜怒哀楽をトラブルにならない程度に表現しながら人と接するというもの。

正論とは主観的な道徳的価値観で物事を善悪にふりわけて解釈し、善を押し通そうとすること。

僕はずっとこの2つのルールに則って人と接してきた。

トラブルが続出する人生だった。

好きを態度に表すのならまだしも、嫌いまで態度に表して良い人間関係を築けるはずがない。

嘘をつくな。不倫はするな。真面目にやれ。怠けるな。株は安いときに買い、高いときに売れ。バットにボールを当てて野手のいないところに飛ばせ。世界人類を等しく愛せ。等々。正論言われても、「で?」としか思われない。

その結果は今。

居場所がなくなり流浪の人生となっている。

もう後がない44歳の秋。一応、実りの秋。 

ここにきてやっとわかってきた。

べきであるという考えはやめるべきである。

べきであるという考えのもとに行動して、理想の環境を作れたためしは一度もない。

べきであるは相手も自分も縛りつける。

縛り付けた結果は相手より自分の方により多くはね返ってきて、居場所を失い続けてきた。 

誠意と正論で生きれば道は開ける、正直者はバカをみないと信じてきた。

間違っていた。

誠意と正論を持ちつつ、人とはうまく付き合えばよかったのだ。

自分の価値観を人に押し付けない。

べきであるからは解放されるべきである。

やっとわかった。

うまくやるのはずるくない。

うまくやることで自分の居場所も、人の居場所も作ってあげられる。

人のことをバカだ、アホだ、能無しだ、なんであんな奴が俺よりいい女連れて多く稼いでるんだ、等々、思ってもいい。ひがんでもいい。

それは心のなかにとどめておいて、その人とうまくやっていけばいい。

気持ちを表に出して相手を罵るのもいいけど、心の中で罵るのもそこそこ面白いってこともわかってきたし。ひひひ。

人は関係ない。

人に興味はない。

人とはうまくやればいい。

べきであるはやめるべきだ。心の中で罵ろう!

楽に生きられるようになってきているのを実感する44歳の秋。

この気持ちを収穫して、美味しくいただきます。

はりきらず、そこにいる

人から相談を受ける。信頼されているような気がして嬉しい。はりきる。

相談を持ちかけた相手からしたら誰かに言いたかっただけで、赤の他人でなければ誰でもよかった。

相談してきた本人がすでに出しているが気づいていない答えにたどり着くために利用されたけだ。

でもそれはそれで人の役に立っている。

相談者は犬や猫を相手にしたのでは答えにたどり着けない。

相槌や共感、受け入れる気のないアドバイスをもらうことで相談者は気持ちを整理できる。

誰でもいいのだが、人間でなければならない。

そういった点で、誰でもよかった誰かに選ばれ、相談を持ちかけられたことには意味がある。

自分が人間としてただそこに存在し、話を聞くだけで人の役に立っていると感じられ、なんの見返りも求めないでいられるのであれば相談にのればいい。

というかそういう人しか相談になんかのれない。

頼られた気がして嬉しくなり、はりきって相談にのるような奴は相談を受けてはいけない。

そういう奴は相談者を自分の意図する方向に導こうとする。

するとすでに自分の中に答えを持っている相談者は反発する。

するともっと力んでアドバイスをする。

相談者の反発はさらに強くなる。

最後には、「アドバイスを受け入れる気がないなら最初から相談なんてもちかけるなよ」とイラついて終わる。

そこにいて相手の感情を受け入れながら話を聞き、意見ではなく、ただ感じたことだけを伝える。

それができる人しか相談にはのれない。

アドバイスしたい。感謝されたい。

そんな思いを持ちながら相談を受けるなんてもっての他だ。

だから僕は相談にはのらない。

元気な大人がオムツして

人にアドバイス、ましてや説教をするなんておこがましいし、バカバカしい。意味がない。

この一年、かっこつけた上司と生意気な後輩に接してわかった。

上司の説教は僕の心には届かなかった。

僕が一生懸命するアドバイスは後輩の遅刻ひとつも改めさせられなかった。

人との関わり方でもうひとつわかったことがある。

相談にみせかけた愚痴に真剣に付き合う必要はないということ。

人の相談にのるのは楽ではない。

本人の話を聞き、本人とその話に登場する人物との関係を考え、本人を含めた登場人物全員の気持ちを想像する。

大した作業だ。そりゃ、疲れる。

すぐにアドバイスしたがる人は相談を受ける苦しみを放棄した人たちだ。

人の気持ちを想像し、理解し、共感する作業はつかれる。

だからアドバイスに逃げたくなる。

僕はアドバイスはしない。

ただ真剣に聞くことは心がけているつもりだ。

だからとても疲れる。

だから真剣に話を聞けば聞くだけ、それが相談などではなく愚痴だったときのショックは大きい。

「俺の時間と労力をどうしてくれるんだ」という気持ちにもなる。

つい最近も相談にみせかけた愚痴にのっかってしまい、とても疲れた。

翌日になると相談した相手はケロッとしている。

「いやぁ、僕の心配しすぎでした。大した問題にならずに終わりました」とあっさり言う。

大した問題にならなかったのはいいことだ。

でもその軽いノリの報告は違う。

相談にのった人の時間と労力を軽くみてはいけない。

僕はローガンとして

他人のことなんて関係ない

他人のことなんて興味がない

の2つを掲げている。

愚痴を聞かされて疲れて、その後の軽いノリを残念がるのもこの2つを徹底できていないからだ。

他人の愚痴なんて聞き流せばいい。

相談にみせかけた愚痴をこぼす奴は自分で消化できない感情を言葉に変えて垂れ流しているだけだ。

自分の感情を処理するために人を巻き込むガキ。糞尿の処理を他人にまかせるクソガキだ。

糞尿レベルの愚痴なら犬、ネコ相手にぼやいてろ。

 

俺はてめぇの母ちゃんじゃねぇんだ、バカヤロウ。

ということで今後はクソみたいな愚痴をこぼして人の時間と労力を奪う奴はみんなオムツつけたマザコン野郎と認定する。

関係ない、興味がない

他人を変えようとするな。変わるなら自分だ。

好きなことだけを好きなようなやり方でやり、やりたくないことはやらない人間が得をするように世の中はできている。

議論は声のでかい人間が勝つ。

気をつかわない人間と戦っても、気をつかう側は息が続かず負ける。

気をつかわない、気が利かない奴は気をつかわない、気が利かない以上は最強だ。

怖いものがない。

僕は他人を無視することにする。

これまで他人にさんざん興味を持ってきた。人の存在を無視できなかった。そのため怒りを感じる場面が多かった。怒りを相手にぶつけることもあった。

もうつかれた。今までと同じレベルで人に興味を持っていたら身がもたない。

ありがたいことに最近、人を無視する感覚がわかってきた。他人をスルーする。他人に関心を持たない。

我慢ができるようになったのとは違う。相手の立場を思いやれるようになったのとも違う。

スルーするという感覚が肌でわかるようになってきた。

今がチャンスだ。

一生分の他人への関心は、これまでですべて使い果たしたはずだ。

僕の心の口癖を、「僕には関係ない」「僕には興味がない」にしようと思う。

関心と無関心の中間の感覚を身につけるのが健康的だとはわかっているけどできない。極端に左に行って痛い目をみて、それがきっかけで極端に右に行って痛い目をみて、やっと真ん中がとれるようになるのが僕の性格だから仕方ない。

かんけいない

きょうみがない

このふたつをお題目のように心で唱えよう。

はやく関心と無関心の真ん中が取れるようになるためにも、今は極端に無関心になろう。

かんけいない

かんけいない

きょうみがない

きょうみがない

南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)

幸せな死に方

何かに無我夢中になって取り組んでいるときに死ねたら最高だ。

恐怖も不安もなく気づいたら死んでた。

死に方としたらそれがいい。

死ぬのが怖くてたまらない。

当たり前だが死にたくない。

死にたくないは生きたいたいうこと。

生きるとは今ここでやるべきことをやるということ。

今この瞬間に無我夢中になる。

無我。我を無くす。やっているという意識を無くす。

布団をたたむ、顔を洗う、歯を磨く、仕事をする、料理をする、食事をする、入浴する。

日常の行動すべてをやっているという感覚を忘れるくらいに集中してやる。

これが生きるということだと思う。

生きている間は死を意識しなくてもすむ。

でも何かに無我夢中になれるのも健康あっての話した。

病気になって動けなくなったら。

病院のベットの上でただじっと痛みや苦しみに耐えながら、その先に見える死と向き合えるだろうか。

自分の心と肉体に向き合うしかない状況でなに無我夢中になればいいのだろう。

会話できる相手が死の恐怖にとらわれた自分の心だけになったと想像してみる。

恐ろしい。逃げたい。でも逃げられない。

日常の雑事のありがたさがわかる。

労働は尊い

僕は自分の心とだけ向き合って生きられるほど強くない。

山に篭ってひとりで修行するなんてとてもできそうにない。

自分の心と向き合うにしても他人の気配を感じられる場所じゃないと無理だと思う。

そう考えてみると、健康で、働けて、日常生活を普通におくることができること、そだけで実はとても幸せなのだと知れる。ありがたい。

健康、ありがとう。

仕事、ありがとう。

身近な人たち、ありがとう。

知らない大勢の人たち、ありがとう。

残念ながら、この感動はすぐに忘れてしまうけとね。

南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)