結果より、努力
自分なりの価値観を確立して、そこに絶対の自信を持つ。
人と比べない生き方をしていく。
僕はとてもじゃないが、東大、京大、早稲田、慶応などに入れる頭脳を持ち合わせていない。
賢い人なら一度読んだら覚えられるような内容も、僕の場合は何度も読んで、その上に何度も書いてやっと覚えられる。そうやってやっと覚えたものも常に復習していなければ簡単に忘れてしまう。
賢い人と比べたら馬鹿馬鹿しいから勉強なんてやめたくなる。
世の中は不公平で、理不尽だ。悲しいけれど、それが現実だ。
だから諦めるのか?
諦めたらそれまでだけど、諦めなかったとしても、僕が東大に入ることなんてできないのは間違いない。
だから、だったら諦めるのか?
結果だけを求めるなら、諦めたほうがいい。
時間の無駄だ。
でも、学ぶこと、努力すること自体を喜びとするなら諦める必要はないんじゃないか。
結果を気にすることは人の価値観で生きること。
結果ばかりにとらわれず、コツコツ学ぶことに喜びを感じて努力を続けるのは自分なりの価値観で生きること。
勝たなきゃいけない相手は自分。
他人の腹を探る前に、己を知る方が大切。
人の気持ちばかり気にしているのは、その人に自分の人生をコントロールされているのと同じ。
人の気持ちのほんとのところはわからない。
だけど自分の気持ちなら少しはわかる。
まずはそこ。
自分の気持ちを整える。
昨日の自分よりは一歩前に進む。
自分を理解して、自分の気持ちを多少なりとコントロールできるようになってから、その先に人を見る。
ブレない視線を手に入れてから社会を見る。
深呼吸して、落ち着いて、自分なりに確実に前に進もう。
人と比べるな。自分だ。
がんばれ!
ちなみに東大に入りたいわけではない。
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南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)
なぜ世間の相場で測りたい
〜気持ちの変化 メモとして02〜
人の心のほんとのところはわからないなら、他人が僕のことをどう見ているか、どう判断をくだしているか、そこのほんとのところもわからない。
他人からどのように見られたいか、そのためにはどうしたらいいのか。人の心のほんとのところがわからない限り、そこを考えても正解はわからないということになる。この手の努力は的外れになる可能性がある。
他人の目を基準にしてあるべき自分を決めるとしたら、いつまでも心は定まらず不安定な自分のままだ。
理解し尽くすことのできない人の心を基準にする限り、わからないということばかりに振り回させて自分の気持ちが定まることはない。
人の目を気にして悩むより、自分がどうありたいかを追求する方が心の安定につながるのではないか。
僕はどうありたいのか?
・毎日少しでも何かしらの成長をしていたい。
・日常生活において地味ながらもやるべきことに黙々と取り組む人でありたい。
・常に静かな幸せを感じられる人でありたい。
・常に学ぶ人でありたい。
・人の言動に左右されない人でありたい。
今のところ思いつくのはこのあたり。
これをみると他者からどう見られているかというのは僕にとっては大した問題ではないとわかる。
なのになぜか他者の目を気にしている。
世間の相場を基準にして自分がどのあたりに位置しているのかを知ろうとする。
それで相場より上にいると判断できたら幸せをなのだろうか?
なにか違う。
もうちょっとでなにかが見えてきそうだけど、まだ見えない。
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南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)
とりあえず限られた人で
〜気持ちの変化 メモとして01〜
まだはっきりとつかめていない感覚だけどメモしとく。
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人が何を考えているのか、ホントのところはわからないということを理解しはじめている。
そうすると。
その感覚がつかめはじめてから、人に接するときの恐怖感や緊張感が弱まってきている。
人の気持ちはだいたい分かるという思い込みが対人関係の苦しみを生む原因のひとつとなっていたようだ。
人の気持ちがわかると思っていたのは大きな勘違いで、自分の気持ちを相手に当てはめていただけ。
だから自分の予想と違う行動をとる人に怒りを感じていた。
例えば。僕は道にゴミを捨てるのは悪いことで、絶対にしてはならないと思っているからしない。これは万人がそう思っているはずだ。だから道にゴミを捨てる人のことはまったく理解できない。
僕は狭い道をスピードを出して車を運転する事はとても危険だと思っている。だから狭い道ではゆっくり走る。これは万人がそう思っているはずだ。だから狭い道でスピードを出して車を運転する人の気持ちは理解できない。
理解できないと不安になる。不安な状態は耐えられないから、そういう人たちは僕から見えるところに存在して欲しくない。だからその人たちに怒る。
この考え方だと価値観の違う相手に対しては常に怒っていなくてはならないということで、とても疲れる。人と接点を持つのが嫌になる。
逆にこの考え方で行くと、世の中は自分と価値観の違う人ばかりなのだから人のことが理解できないのは当然だと思えたら怒る回数は自然と減ることになるということ。
今、まさにその怒りが減っているのを体感している。
人の気持ちがわからないと不安になる。だからわかろうとしてきた。わかろうとしてわからないのにわかったつもりでいたから、ずっと人との関係が怖いままだった。
人の心のほんとのところはわからない、決めつけられない。これをわかることが他人を尊重する第一歩で、他人と健康的な関係を築く土台になるのではないか。
その上で、「じゃあわからないでいいや」ではなくて、わからないけど理解しようとする努力は必要で、その努力をすべき対象は全人類なとではなく、僕が大切だと思う限られた人だけでまずはいいのではないか。
ということ。
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なるほど。だいぶ整理できてきた。
ここにいます。譲りません
他人と自分との距離が曖昧だ。
自分の感情を他人の言動によって揺らされてしまう。自分の感情を相手に重ねてしまう。
これがけっこう疲れる。喜怒哀楽が激しくなってしまうから。
人との距離をうまく取れないまま寝たきり老人になってしまったら、しもの世話をしてもらうことに対してプライドが許さず、介護してくれる人に当たり散らす、かなりタチの悪い老人になってしまう気がして怖い。
そんな恐怖も相まって、もう人の感情や言動に左右されやすい自分の性格にもうんざりしてきた。我慢も限界が近い。
なんとなくわかってきたことがひとつ。苦手な人、場所、状況から逃げずに、そこにいること。そこにいて、そこにある悩みをしっかり見つめること。誰にも頼らず、ひとりで。逃げずに苦しみを味わうことでしか揺れない気持ちは作れない。
逃げずにそこにいるというのは自分の居場所と気持ちを守りぬくということ。
別の場所でなんとかしたらいい。居場所はここじゃなかっただけだ。次の場所でうまくやれたらいい。そう考えて逃げてきた。そうやってほんとはいたかった場所にいられなくなるってことを続けてきた。
守るって楽じゃない。守りの中には責めの姿勢がある。守るためには敵を追い払う的確な攻撃力が必要だ。
僕は今与えられた場所を守り抜く。くだらない理由で放棄しない。贅沢をいえば守りつつ責めてもっと居場所を大きくしてやりたい。
嫌なことを、苦しいことに出くわしたときの自分の気持ちを味わう。どんなときに臆病になるのか、調子にのるのか、逃げようとするのか、諦めようとするのか等々、味わって自省して心の成長に繋げてやる。
そこにいる。目をそらさず、争わず、場所をあけ渡さないためにそこにいる。
譲るというと聞こえはいいが、逃げてきただけだ。逃げた自分の強さを誰かにわかって欲しかった。残念ながら逃げたら負け。僕が弱いから逃げたってゆうのはみんなわかっていた。わからなかったのは僕だけだ。
僕はここにいる。この場所は譲らない。
他人と自分との距離を保つためにも大切なことだ。
南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)
自省しないとね
虚しさ、罪悪感、悔しさ、怒りなどがごちゃまぜになった感情に周期的に襲われる。
この感情に身を任せたら引きこもりになってしまう。
僕は誰かから必要とされているのだろうか。
僕は誰かを幸せにできるのだろうか。
僕の生きる意味とは何か。
人生が僕に期待しているものがわからない。
次こそはと思いながら期待が外れ、落ち込んで、次こそはと持ち直して、また期待が外れ落ち込んで。
いつまで「次こそは」と立ち直れるのか。
このまま適当に自分を励まし続けて、中途半端な気づきを繰り返し、その都度ちょっとだけ気持ちよくなって、でも本質的には人に頼って生きて、最後は世を人を妬みながら死んでいくのではないか。
なんのためにこれまでいろんなことを考え、悩んできたのだろう。今までの学びや経験はなんの役にも立たないとは言わないが、大きな役に立っているとも思えない。
やめた。全部やめた。
と言いたくなる。でも死ぬ勇気もないから全てをご破算にすることもできない。
この怒りは自分に向けらたものだ。
不甲斐ない自分に腹が立っている。
妻を幸せにしてあげられない自分。
世間に意見を通せない自分。
周囲からナメられている自分。
こんな自分が許せない。
親不孝、嘘つき、根性なし、ビビり、ケチ、(いろんなものが)下手くそ、(いろんなものが)ど素人、何も持ってない、弱いものいじめ、弱いくせに強気、負け犬、甲斐性なし。
どんなに罵ってもしっくりこない。クソみたいなプライドを持ち続けてるんじゃない馬鹿やろう。
自分の人生に責任を持てよ!
自分の力で誰かを幸せにしてみろよ!
イライラして、憤るだけで終わりにしていたら同じことを繰り返すだけだ。
この気持ちの原因をしっかりと見つめて、人のせいにせず、自分が持つ原因を理解して対処しよう。定期的に自信を無くして鬱っぽくなるのはしんどい。もうやめよう。ちゃんとしよう。
今回の気持ちの落ち込みをきっかけとして、ちゃんと自省できるようになろう。しっかり自省できるかどうか。そこポイント。
今回の結果の原因は自分にある。責任は全て自分にある。ここポイント。
逃げるな。考えろ。見つめろ。うやむやにするな。言い訳するな。恥ずかしさに勝て。
南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)
自問自答癖をつける
言葉数を減らすとネガティヴな感情につかまる時間を減らすことができる。
感情が揺れるとき、それに合わせて言葉を発してしまうと感情の揺れがどんどん大きくなる。感情が言葉を、言葉が感情を後押ししていく。感情がおさまるのに時間がかかる。激しく揺れる感情に疲れるまで、白けるまで言葉を重ねてしまう。そして後悔する。
言葉を慎むことで自分の感情による影響を少なくとも自分自身だけに止めることができる。人を巻き込む可能性が格段に減る。
音として発せられる言葉の目的は他者へ何かを伝えること。伝えた何かによって相手に変化を起こそうとして言葉を使う。
ネガティヴな感情を言葉にすることで相手を威嚇したり、屈服させたり、相手に共感を求める。そんなのは弱い人間のすることだ。
他人を巻き込むことで自分の感情を落ち着かせようとしている。
なんらかの言動に現さない限り人に伝わりようがない自分の感情という超個人的な問題を他者に無理やり共有させることで自分の心の平安を得ようとしているのだから。自己満、自己中の極みだ。
自分の問題を自分で解決、消化できない奴ほど感情をあらわにする。
弱い犬ほどよく吠えるとはこういうことだ。
暴力的、感情的な言動をとる奴はさみしくて仕方ない奴だ。人から相手にされたい、かまってほしい、認めて欲しい、「あなたが正しい」と言ってもらいたい。僕がそうだったからよくわかる。
様々な宗教で言葉を慎む修行があると聞く。
自分を見つめるためには自分に語りかける言葉が必要なのであってそれは頭の中で発せられるだけで十分だ。音声にする必要はない。音声にしてしまうったときから他人へのアピールに変わり内省ではなくなる。誰かのせいになる。自分で自分を癒せないから他人を巻き込もうとする。
他人を巻き込まないためには内省を重ねるしかない。自分で自分を癒せるようになるためには、自分で自分に語りかけ、自分を納得させるしかない。他人に頼る限り、他人がいなければ救われない人間で終わる。
感情が揺れるとき、まずは自分に語りかけることだ。何があった? どうした? どうしたいのか?
自分への質問は感情と自分に隙間を生む。その隙間にまた質問が入り込み、感情との隙間が広がる。そうしたら落ち着きを取り戻せる。
相手に問う前に自分に問おう。
どう感じたい? どうしたい?
問われるべきは自分だ。
南無阿弥陀仏 ( ̄人 ̄)
精神的出家する
最近髪の毛を七三分けにしている。おしゃれな七三ではない。自分で髪を切っているからデザインカットなんで無理だ。坊主に少し手を加えただけのヘアスタイルが伸びたものを文字通り7対3に分けている。それだけのかま
妻からは、おっさんくさいと言われる。
おっさんくさいと聞くと、ほんとはおっさんって歳じゃないのにおっさんぽく見えるから年相応にした方がいいよという意味が含まれているように感じるが、残念ながら僕はおっさんだ。七三分けにすることで年齢相応に見えるようになっただけだ。
最近どんどん外見に対するこだわりがなくなっている。そこに費やすエネルギーが惜しくなってきた。
かっこよくありたいという思いはあるし、老いを感じるのは楽しいものではないから若く見えるように努力するのも無意味ではないと思う。
でも本当のかっこよさは外見を補うことで得られるものじゃない。
心と身体のバランスが取れている姿こそかっこいいのだ。最近そう思う。
年齢相応、中身相応、身分相応。それでいい。
実力以上に見せることで、実力以上のものを得たとしても、その差額はいつかどこかで支払わさせられる。カッコつけてもカッコ悪い。何事も不相応なことをすると歪む。
自分の心を見つめず、外見を取り繕って生きるのは楽だ。現実逃避だから。
心と身体を一致させて生きることこそ難しい。年齢を重ねて心が円熟していくなら、外見も相応に円熟していくのが普通の姿だろう。
若さにしがみつき、外見にこだわり続けるのは未熟さの現れだ。
僕は少し前まで軽いモヒカンにして髭を生やしていた。今思えば恥ずかしい。そんな程度でアピールできる個性なんてびっくりするほど安いものだというのがわかっていなかった。
外見で人目を引こうとする行為は自分の安っぽさをアピールしているに過ぎないと気づけなかった。安い生き方をしているやつは、考え方も浅いわけだ。
わかる人には僕の安っぽさはバレていたと思う。
精神的に出家することにした。日常生活を続けながら出家の生き方を追求していく。
具体的には
・社交の場以外ではお酒を飲まない。
・食の量を減らす。
・テレビは必要以上に見ない。
・スマートフォンを必要以上に触らない。
・インターネットに必要以上に頼らない。
・学び続ける。
こんなふうに社会生活を送りながらでも出家的な生き方をするのは可能だ。
僕は精神的に仏門に入る。出家万歳。
なーもあーみだーぶ なーもあーみだーぶ
( ̄人 ̄)