居心地が良いとこほど気をつけろってこと
職場に思っていることと裏返しのことばかり言うおばさんがいる。
「私にミスがあれば遠慮なく言ってください」という言葉のほんとうの意味は、「私はミスなんてしないから考えてものを言えよ」である。
責任の所在がはっきりしないミスが起きた時の全体に対する注意に、「あ、それは私のミスかもしれませんね」としゃしゃり出てくる。謙虚に聞こえる発言をしたところの本音は、「あ、それ絶対私じゃないです」だ。
「○○(僕)さんがいてくれるおかげで助かります」は、「目障りだから早くどこか行かないかな」である。
何度かおばさんに本人から言われた通りにミスを指摘したことがある。その時の答えは、「まあ、人それぞれ考え方がちがいますから答えは一つじゃないですよね。○○(僕)さんが納得するようにされたらいいと思いますよ」というものだった。
ミスの責任が明らかに本人にある場合は謝らないのに、責任の所在があいまいなときには、「それきっと私のミスだと思う」と言えるところに、自分は反省のできる謙虚な人間だというアピールと、自分は正しいという自信があふれ出ている。
謙虚さをアピールしているつもりで図々しさがダダ漏れなのに気づいていないのは本人ばかりのようだ。
おばさんは弱くて、怖いんだと思う。
本音で生きたら自分をコントロールできないから、本音で生きたら仲間がいなくなるから、裏返しのことばかり言う。
本音の裏返しを口にしているかぎりは自分は良い人でいられるのだ。明るく、謙虚で、人に感謝できる素敵な自分でいられるのだ。
このおばさん、これまでどの職場に行っても苦手な人が現れ、その人とのトラブルが原因で仕事をやめていたらしい。
そんなおばさんが今回の職場には苦手な人がいないという。みんないい人ばかりだそうだ。
それは当然だ。みんながおばさんの言動を我慢してくれているんだから。
居心地良いところほど何を思われているかわからないから気をつけた方がいいって、太宰治も言ってるよ。
他人じゃない、自分だ
昨日の8時15分。原爆死没者に対して黙祷を捧げた。
原爆投下から72年。核兵器はなくならない。
その理由は世界のあちこちに悪人があふれているからだ。政治家、事業化、庶民、老若男女、平和運動する人たち、核兵器こそ抑止力と信じる人たち、核兵器なんてどうだっていいよと思っている人たち。この世は悪人だらけだ。
僕もその悪人のひとりだ。
僕には核兵器を作る技術もないし、核兵器のボタンを押す権利もない。だから何百万人の命を簡単に奪うことはできない。殺す力がないから殺さないだけだ。善人だから殺さないのではない。
平和を実現させるため、少しでも多くの人が幸せであるために僕は僕にできることはしたい。でも社会運動はしない。政治活動もしない。社会運動も政治活動も、世の中が悪くなるのは他の政治家や政党の責任であり、自分たちは正義の側にいるという前提のもとに行われる活動だからだ。
事故を起こすかもしれないと注意するから安全運転を心かげる。
自分の汚さ、醜さ、卑しさを知ることが平和運動への一歩だ。争いは自分が正しいと主張するところからはじまる。だったら、「どうも自分は欲深くて、差別と偏見のかたまりで、好き嫌いで人を判断し、少しでも楽がしたい、少しでも損をしたくないと考え、自分の利益のためなら多少ひとを苦しめても平気な人間かもしれない」とくらい思っていられたら、人様のことを実際に傷つけようなんて気は起こらない。
心の中では、殺すし、殴るし、面と向かって罵るし、相手のいないとこでは口に出して悪口を言うしというのはやめられない。だけど悪人の自覚がある限りは現実的に他者を傷つけることは“かろうじて”しないでいられる。
過去の歴史から学べ!政治が悪い!
そう叫ぶのはいい。でもその叫びが、「過去の歴史から学べば人間は善人になれる。私は学んだひとりだ」や「自分たちの主張どおりに政治が動けば世の中は平和になる」と信じて叫ぶなら、自分たちは批判される側と同じタイプの人間だと知らなければならない。
条件さえ整えば人は人を殺す。これは歴史が証明している。
人を殺さないでいられる状況に生まれたことへの喜びと、人を殺す可能性を秘めている自分であることへの恐れを持つことが平和への一歩だ。
他人をどうこうしようとするところからは何もはじまらない。他人じゃない、自分だ。
明日は8月6日
明日は8月6日だ。
昭和20年8月6日午前8時15分。広島に人類史上初の原子爆弾が投下された。
そのときのキノコ雲を写した有名な映像がある。あのキノコ雲の下で一瞬にしてどれだけの人生が奪われたか。またその後もどれだけの人々を苦しめ続けてきたか、続けているか。
恋も仕事も家庭も。多くの個人の可能性が一発の爆弾によって簡単に奪われた。
戦争は悪だと万人が認めるはずだ。
なのに戦争はなくならない。
人がどれだけ悲惨な死に方をして、それにまつわる苦しみが増えたとしても、戦争をする方がましだと認める価値観が存在しているから戦争は無くならない。
一部の権力者や金持ちのために戦争は行われているのだ。確かにそうだ。でも、でもだ。凡人中の凡人である僕のような人間にも戦争がなくならない責任はある。
戦争がおこる原因を僕たちは身近なものに引き寄せて考えているだろうか。心の中で人を恨み、あいつさえいなければと思う僕が人を殺してもいい権利を得たとして、尚且つ、殺すことで賞賛を浴びる状態になったとしても、絶対に殺さないと言い切れるだろうか。
僕の住んでる町の人たちすべてが僕に会うたびに、「あいつを殺すのはいつですか? その日が来るのが待ち遠しいのです」とすすめてくる。最後には、「はやく殺せ。さもないとお前をぶち殺すぞ」と集団で脅してきたら。
政治家を批判してもいい。ただし自分のなかの悪も同時に自覚しなくてはならない。それができないのに人だけを責めるのはずるい。善人ぶるな。
原爆で殺される側、殺す側、どちらにも簡単に転んでしまうのが人間だ。
明日の8時15分には黙祷を捧げる。世界人類すべての人々が悪人であり、また仏性も備える尊い存在であることに気づくことで多くの人が阿弥陀仏の本願を知り、往生し悟りを開き、菩薩となり、この世、あの世で苦しむたくさんの人たちを救えますようにと祈る。
みんなが幸せになりますように。
お互いがお互いを拝みあえる世界になりますように。
僕にとってはこの程度のものだったのか
1週間お酒を飲んでいない。
空腹感がお酒を飲みたくさせるということがわかってから、お酒が飲みたくなったらまず食べるようにしている。そこから本当に飲みたいのか考えろ、と。すると飲まなくてすむ。
今日の晩は外食した。定食を注文する。
週末だ。料理が出てくるまでの間にビールに手を出しそうになる。料理が出るまでの辛抱だと言い聞かせてグッとこらえる。料理が出てきてサラダを3口ほど食べる。もうお酒を飲みたいって気持ちは無くなっていた。
僕にとってお酒なんてこの程度のものだったんだ。なのになぜ今までは毎日飲むべきものだと思っていたのだろう。習慣、依存、勘違い。思い込みとは怖いものだ。
ただし気は抜けない。今年に入ってす50日弱お酒を飲まなかった時期があったのだが、一度口にしたらそれ以降は3日に1回くらいのペースには戻ってしまったという経験がある。
飲まない! やめる! と意気込むと必ず失敗する。
飲まないという選択はできるようになった。次はお酒と適度な距離を保ちながらうまく付き合う術を身につける段階に入る。
試行錯誤してみよう。
寝言は自分の心に収めとけ
昔あった何かのドラマ。
芸術家志望の女の子が写真を掲載したブログを毎日アップしていた。
いつもと同じ日なんてない。毎日が新しい。だからブログに記載するネタには困らない。そんなことを言う女の子。
その子のブログに掲載した写真がある事件の事件現場で撮影されており、しかも犯人が写っていた。それが証拠になって犯人を追い詰めることがてきるかと思いきや、逆に無実を証明するアリバイになってしまう。
彼女は毎日記事を書いている。彼女がブログをアップした日は事件の後だった。つまりその写真は事件発生後の日時に現場で撮影されたものだったのだ。
でも結局犯人は写真に写っている人物だった。毎日が新鮮だから毎日書くネタには困らないなんて大嘘で、彼女は記事を書き貯めては小出しにしていた。事件当日撮影した写真を後日ブログにアップしていたのだ。
毎日が新鮮です。
毎日感謝しかありません。
こんなことブログやツイッターやフェイスブックに書く奴いるけど、バカじゃねえかと思う。
生まれて間もない赤ちゃんでもない限り毎日が新鮮なんてありえない。逆にいい歳こいて毎日が新鮮だったら危ないよ。生きるための技術、知識、能力を習得していないってことじゃないの?と疑ってしまう。
毎日感謝しかないだと。お前はブッタか? キリストか? 毎日感謝しかないなんてとんでもない悟りの境地だよ。そんな完成した人間だったらその能力をSNS上だけで使わずに、世界の平和を乱す北朝鮮のドンに感謝の意味を伝えに行ってくれよ。悟ってるんだからそれくらいできるだろう。ってゆうか、せずにはいられないはずだろ?
人生なんて辛いことの方が多いに決まってる。そうじゃないなら、よっぽどのボンボンかお嬢様だ。
辛い人生に成長や気づきってゆう地味ながらも味わい深い喜びかあるから生きていけるんだ。わかりやすい奇跡なんてねえんだよ。
くそー、悔しい、あのやろー、ぶち殺してやる!
いやそんなのはダメだ。そんなのじゃだめなんだ。怒りを赦しで乗り越えろ! 乗り越えろ! 乗り越えろ!
って感じで歯を食いしばってこそ、新鮮な毎日、感謝の日々がやってくるんだよ。
キラキラ輝いてる寝言を言ってんしゃねえよ、このタコ!
空腹が飲酒に誘っていた
1人で飲む酒を断つための無理のない考え方がみつかった。
一日一食を決意したのが食に対する1回目の転機だった。記憶力を向上させたいからはじめた。それまでは一日二食だった。やってみると体が軽い、集中力が増す、穏やかになる(これらはすべて自分比)などの効果を実感した。
一日一食の経験が深まると、もっと心身ともに快適になりたいという願望が生まれる。そこで3日間の固形物抜きを試みた。フルーツや水分、糖分は塩分は遠慮なく摂取しながらの3日間だ。この経験により食べる量はこれまで思っていた量よりかなり少なくても生命維持に支障はきたさないどころか、量を食べない方が心身ともに楽になることを確信した。これが2回目の転機だ。
そして一昨日の晩から1人飲みを断つことにした。しかしこの決意は精神論であり、飲まないと決めたら飲まないぞという類のものだからいつ諦めてもおかしくない。
1人飲酒をしないことを自分にしっかり納得させる考え方はないかと一昨日の晩から無意識に考え続けていたのだろう。昨日の日中に自転車に乗っているとき考えがまとまった。
僕がお酒を欲するときは空腹時だ。休日でも昼からは飲まないので、晩御飯の空腹時に飲みたい欲求に襲われる。僕の思考回路はいつのまにか、空きっ腹にアルコールを染み渡らせる喜びを感じるために夜の空腹感が存在するいうものになっていた。これはどう考えてもおかしい。一日一食で精神集中とか言ってる場合ではない。依存症の考え方だ。
ちなみに先にご飯を胃に入れてしまえばお酒を特別に飲みたくはなくなる。
「酒を飲みたい!」という欲求の正体は空腹感であり、健康的に空腹を満たすことでお酒を飲まなくてもよくなるといことがわかったわけだ。
こんな簡単なことになぜ気づかなかったのか? お酒にとらわらていたからだ。習慣によって、お酒は毎日酔っ払うまで飲むものと思わされていたのだ。
今回なぜ気づけたか? 一日一食によって少しずつ研ぎ澄まされてきている身体が教えてくれたからだ。一日一食しかとらないのにアルコールが空腹時の一発目にくるなんておかしいと身体が教えてくれた。
3日間固形物を抜いたときに、空腹の大半は喉の渇きを勘違いしたものだということを知り、自分で体験して納得した。空腹と喉の渇きの体験と身体からのシグナルを統合させた僕の心が、「お酒が飲みたいという欲求の正体は空腹感では?」という疑問を生み出してくれた。
身体の変化は心を変え、視点を変え、とらわれから解放してくれる。貴重な体験だ。
楽しい別れ
一日一食をはじめる前にはかなりプレッシャーを感じた。やれるだろうか。もつだろうか。
未知の世界だったから大層なことをはじめるような気がした。
やってみたらそんなに大したことではないとわかった。だから2ヶ月続いている。
あとガチガチの原理主義でやってないから。人と会うときに、「2食目なんで食べません」とは言わない。失礼のないようにちゃんと食べる。
もうひとつ。本気で取り組まなければとおもっていることがある。飲酒だ。
ある目的が達成されるまでは家でひとり飲む酒はやめたい。完全にやめたい。「家で」「ひとり」で飲む酒を、だ。
家に友人がやってきたときに飲むお酒や、外で人と飲むお酒は別だ。それまでやめるとこれもまためんどくさい原理主義者になるだけだ。
で、こんなものは「やめたい、やめたい」とお題目のように唱えていたからといってやめられるものではない。
だからここで宣言する。
ある目標を達成するまでは「家で、ひとりで飲む酒」は完全にやめる。
目的達成はいつになるかわからない。一生無理かもしれない。もしそうなら僕は一生ひとりでの晩酌はしないということになる。でもそれくらいの覚悟を持たないと、目的を達成することはできない。
週末ならひとりで飲むのもありにしてきたけど、それも今日で終わりだ。今日で終わりというのは今日飲んでから終わりではなく、今日からもう飲まない。昨日も飲んでないからちょうどいい。
最初はビビるけど、一日一食と同じことだと思っている。やってみたらなんてことはなかったってことになるばすだ。
はい、やめ。
これでもうやめ。
この瞬間から僕はひとり家飲みをしない人になった。もうひとりでは飲まない。
だいたいお酒を飲まないことで何か不都合なことがあるのか?
飲むことでの不都合はたくさんあっても、飲まないことには好都合しかないはずだ。
さようなら、ひとり晩酌。
また会える日を楽しみに待ってろよ。結果を出して必ず戻ってくるからな。
「さようならぁ〜、さようならぁ〜」
もういいよ、ひとり晩酌。追ってくるなよ。
「さよーならー
さよぉーならぁー
さぁよぉーーならぁぁぁーーー
まってるよぉぉぉぉぉーーーーー」